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海外旅行の「当たり前」を叶え、次世代にも旅の価値を届けるために。JTBが歩んだ昭和100年

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100年前に始まった昭和。昭和はまさに、激動の時代。戦争という悲しい歴史を背負いながらも歩みを続けた日本は高度経済成長期を迎え、かつての夢や希望を数多くの現実にしてきた時代です。
今、「当たり前」といわれるものの多くが昭和に生まれ、それは海外旅行も同様です。現在では、多様な楽しみが叶えられている海外旅行もまた、時代の流れとともに築き上げられてきたものなのです。

海外旅行は叶わぬ夢。その扉が開いた1964年

創立時記念撮影

JTBの母体である「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」は今から110年以上前、大正時代の前夜、1912年3月に産声を上げました。当時、事業の目的は外客誘致。日本から海外に旅行するのではなく、海外から日本へ外国人を招くための事業でした。しかし、1915年(大正4)に第一次世界大戦が勃発すると訪日外国人が激減。時を同じくして大正末期の日本では旅行熱が急激に高まり、「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」は国内旅行を案内する機関としての色を濃くしていきます。

以降、何度かの組織改編を経ながら、国内外の旅客者向け旅行サービス機関として前進を続けていましたが、昭和の時代に入ってもなお、一般市民向けには、あくまでも国内旅行のご案内がメイン。なぜなら、昭和に暗い影を落とした戦争のみならず、当時はそもそも、観光を目的とした海外旅行は許されていなかったのです。

遠い夢だった海外旅行の自由化が叶ったのは、1964年(昭和39)4月。JTBの前身である「株式会社日本交通公社」が、それまでの財団法人から営業部門を独立させ、株式会社として歩み始めた約4ヶ月後のことでした。ここから私たちJTBの、海外旅行を「当たり前」にするための挑戦が始まります。

数多の壁を一気に打開した、パッケージツアー

1964年の海外旅行自由化。それは、日本経済発展の賜です。戦後の国難にあった日本は経済が脆弱だったため、外貨の持ち出しは厳しく制限されていましたが、1950年代半ばから始まった高度経済成長を後押しに、観光目的の海外旅行が解禁。しかしながら当時の海外旅行は富裕層のみの手が届く、究極の贅沢でした。

例えば、海外旅行自由化の1週間後にJTBが主催した、ハワイ9日間『第1回ハワイダイヤモンドコース旅行団』と題したパッケージツアーの代金は36万4,000円。これは当時の初任給、1万9,100円(大卒国家公務員)の19倍に当たる金額であり、現在の物価に換算すると約400万円。それでも1964年の出国者数は12万7,749人。多くの人が海外旅行という夢を実現させたのです。

当時、海外旅行の夢を叶えるための近道はパッケージツアーでした。航空券やホテル、目的地での行程に加え、現地での案内や通訳まで担う添乗員がセットになったツアーは、夢の海外旅行を阻むハードルを一気に取り払ったのです。

当時から、ハワイは人気の旅行先。海外旅行自由化を見据え、解禁前から始まっていた積立旅行の行き先としても一番人気でした。

日本人が初めてハワイを訪れたのは幕末、1860年のことです。勝海舟やジョン万次郎、福沢諭吉といった歴史上の人物がカメハメハ4世に謁見し、明治が始まる1868年には153人の日本人がハワイに移住。昭和初期には日系2世としてハワイに生まれた音楽家・灰田有紀彦がハワイアンバンドを結成し、日本にハワイアンブームを巻き起こします。

日本からハワイに渡った移民の歴史と、ハワイアンの音色が奏でる南国のムード。この親しみと憧れが日本人の心をくすぐったのでしょう。
ハワイ州観光局をはじめとする現地機関の要請もあり、JTBは海外旅行自由化の同年にいち早くホノルル事務所を開設し、現地を訪れるお客様の不安を解消するべく、対応に当たったのです。

その後、JTBが1968年に打ち出したのが、海外主催旅行ブランド『ルック』でした。この名称は社内外700点の応募のなかから選ばれ、決め手は「海外旅行のポピュラー化に適した、気軽なイメージを持ち、しかもパンチがあり、カタカナ、英語のどちらでも標記できる」こと。航空券、ホテル、現地での楽しみをすべてセットしたお得なパッケージツアーとして販売し、JTBは価格の大衆化にも注力していきます。
この流れに拍車をかけるように、1970年(昭和45)にはジャンボ機第1号であるボーイング747が就航。従来の3倍近くもの収容力を持つジャンボ機の登場により、団体割引のバルク運賃が可能になります。

一度に多くの旅客を運べるからこそ、一人ひとりの価格を下げられる。バルク運賃の適用は、一定数の座席を一気に購入できる団体旅行の前提があってこそ。この仕組みを後押しにパッケージツアーの価格は大きく下がり、当初、30万円台だったハワイへのツアー代金は、最大7割近い値下げが叶いました。

また、1971年(昭和46)には1ドル360円に固定されていた為替相場が廃止され、変動相場制へと移行。日本経済の好調から可処分所得も拡大し、さらなる追い風となったのが1978年(昭和53)の成田空港開港でした。これに円高も重なった1980年代には海外旅行需要が急拡大。昭和から平成へと時代が移り変わった直後の1990年(平成2)、ついに日本の海外旅行者数は1000万人を突破するに至ります。

自由な海外旅行が許されなかった時を経て、昭和という一つの年号のあいだに夢の海外旅行が「当たり前」へと変化。JTBは、海外旅行に必要な手続きを一括サポートする体制を「パッケージツアー」として整備し、同時に「海外旅行ができる時代が来た」ことを世に広めていったのです。

パッケージツアーに、もっと「自由」を

しかし、世の中の「当たり前」は常に変化し続けます。パッケージツアーというスタイルが海外旅行を「当たり前」にした先にあったのは、より自由な海外旅行。「個人旅行」時代の到来です。ここからの歴史は1995年(平成7年)にJTBに入社し、海外旅行自由化の当初から屈指の人気を誇ったハワイへの赴任経験も持つ、浅見雄介へのインタビューからひも解きます。

エスコート商品販売事業部 海外旅行部長 浅見雄介

1995年に日本交通公社(現:JTB)入社。長野支店に配属され、オリンピックプロジェクトや法人営業を担当。2003年に本社に異動し、アジア担当としてルック改革を手掛ける。2007年から2012年までJTBハワイ赴任。帰国後は海外政策や商品開発等に従事。現在はエスコート商品(添乗員付ツアー)を担当。ツアーグランプリ2023「こころで旅するカナダTsunagari-tabi」国土交通大臣賞受賞など、サステナブルな旅作りに取り組んでいる。

—— 浅見さんがJTBに入社した1995年、当時の海外旅行はどのようなスタイルだったのでしょうか。

パッケージツアーが主流でした。今も昔もハワイは大人気。特に僕がJTBに入社する少し前、1990年代初頭からハワイを訪れる日本人観光客が急増したと聞いています。当時、ワイキキの中心部にある、とあるホテルの客室の約1/5をJTBのお客様が占めていたそうです。

海外旅行のハードルを下げるには、価格を抑えることが重要。価格を抑えるためには大量仕入れ・大量販売がセオリーですから、当時のパッケージツアーはホテルやお部屋の選択肢も少なく、航空会社も便名も指定なしで販売するのが主流でした。

1990年代、日本からハワイへの旅客機は午前中の到着がほとんど。しかし、お客様が空港に到着してもすぐにホテルにはお送りせず、バスが満席になるまでお待ちいただいていました。

バスが満席になるとブリーフィング会場と呼ばれる場所にお連れし、そこでオプショナルツアーのご紹介。その後、お客様を昼食会場にご案内しますが、メニューはパイナップルボート一択。食後にホテルにお連れしていったん解散したのち、15時に再集合してJTBの係員と一緒にチェックインするわけですが、空港到着から約8時間後ですよ。この時点でもう、お客様は相当お疲れの状態。貴重な初日にもかかわらず、ホテルのロビー付近のソファーでグーグー寝て、時間をつぶしているんです(苦笑)。

いくら価格を抑えるためとはいえ、自由がない。そこにお客様もちょっと窮屈さを感じていたのかもしれません。好調を続けていたパッケージツアーの売上に陰りが見え始めます。そこで1995年(平成7年)にハワイで始まったのが、JTB独自の「ʻOLIʻOLI(オリオリ)サービス」でした。

—— 1995年にスタートした「ʻOLIʻOLIサービス」、どのようなサービスだったのですか。

コンセプトは「自由、快適、安心」。お客様の思うように行動でき、それでいて、お客様が困ったときにすぐに対応できるサービスです。価格は引き続き抑えることも徹底しました。ちなみに、ʻOLIʻOLIはハワイ語。日本語にすると「うきうき、わくわく」といった意味です。

具体的にはまず、お客様が空港に到着されたら待機時間を設けることなく、即座にバスで出発。

行き先は味気ないブリーフィング会場ではなく、空港とワイキキの中間地点にあるアロハタワーにお連れするようにしました。ここはハワイの玄関口として、ホノルル港に寄港する船や多くの訪問者をALOHAで迎えた歴史的な場所です。10階の展望デッキからは、「これぞハワイ!」という絶景が広がり、到着直後から「本当にハワイに来たんだ!」と実感いただけます。
ブリーフィングを行った後は、お客様ご自身が自由にチェックインまでの過ごし方を選べるようにしました。建物内にはレストランもショッピングセンターもありますし、ご昼食もスタッフがお渡ししたミールクーポンで、お好きな料理をお召し上がりいただけます。

加えてハワイへのご到着時に、お客様にはʻOLIʻOLIカードというカードをお渡しするようにしました。このカードはトロリーの乗車券や契約店での割引に利用できるので、トロリーに乗って島内観光をしながらだったり、ぶらぶらお買い物をしながらだったり、アロハタワーからホテルへの移動に添乗員の同行はいりません。お客様の気の赴くままに寄り道いただけます。
スーツケースなどの大きな荷物はJTBが空港からホテルまで直送するため、バッグ一つで身軽です。お客様の自由と快適が、格段に向上したのではないでしょうか。

—— お客様が自由に行動できるとなると、ホテルのチェックインはどうしたのでしょうか。

ずばり、団体での一斉チェックインから個人ごとのチェックインに変えました。ʻOLIʻOLIカードをホテルのフロントに提示すれば、スムーズにチェックインできる仕組みを整えたんです。
しかし、個人ごとのスムーズなチェックインを可能にするには、お客様ごとに異なるお部屋の階層・眺望タイプやエキストラベッドなどの予約情報が、間違いなく手配されている必要があります。

そのため、JTBのスタッフは毎朝3時に出勤。ホテルからFAXで届くお部屋番号とお客様のお申込み条件を突き合わせ、手配の間違いがないかを確認していました。ピーク時には1日1000名、500部屋を超えるご到着が当たり前でしたが、熟練のスタッフともなると部屋番号だけを見て、瞬時に条件にそぐわない手配を弾いていましたね。手前味噌ながらアッパレですよ(笑)。

—— その仕組みにより、お客様のさらなる「自由、快適」が叶ったのですね。

そのとおりです。とはいえ、「ʻOLIʻOLIサービス」には「安心」も欠かせません。自由には時に危険が伴いますが、JTBのお客様としてご参加いただく以上、危険があってはなりません。その安心を担保するためのサービスがʻOLIʻOLIフォン。携帯電話の貸し出しサービスです。

一般の人が携帯電話を購入できるようになったのは1994年(平成6)。まだまだ携帯電話が普及していない時代ではありましたが、JTBは携帯電話ʻOLIʻOLIフォンを無料でお貸し出しし、JTBのコールセンターへの通話も無料というサービスを提供しました。お客様ご自身の不安を解消するために利用できるだけでなく、お客様との通信手段を確保しておけば、旅行主催者としてもお客様の安全を守れます。ʻOLIʻOLIフォンが「自由・快適・安心」というコンセプトのうち、「安心」のピースを埋めたんです。

個人旅行の隆盛、それは「当たり前」の進化

—— 「ʻOLIʻOLIサービス」のコンセプトの一つである「自由」は個人旅行に通じるように感じました。JTBは個人旅行へのニーズの変化に、どのように向き合ってきたのでしょうか。

2017年(平成29年)にJTB総合研究所が発表したデータによれば、海外旅行に個人手配を選んだ人の割合は55.1%。ハワイの「ʻOLIʻOLIサービス」を筆頭に、各国の企画担当者が自由も、快適も、安心も妥協しないプランを練っていましたが、個人旅行の高まりは感じていました。

そこで、JTBは2010年(平成22)、「ルックJTBの決心。」と題したパッケージツアーの大改革に乗り出しました。18万件のお客様アンケート、8000件の添乗員レポート、1500件の販売店の声を分析し、お客様が何を求め、何に不満を持たれたのか、徹底的に洗い出したんです。2010年当時は価格競争のまっただ中。円高の影響もあり、「もっと安く!」という空気が漂っていました。JTBも負けじと価格を抑えることに注力していましたが、お客様からすると、価格が安いだけのツアーは魅力的な選択肢ではなかったのかもしれません。なぜなら、安さ重視のパッケージツアーは出発直前にならないと飛行機の便もホテルも決まらず、同行者と並びの座席を選ぶこともできない。

そうしたお客様の不満を解消するため、海外旅行の質そのものを向上するための取り組みが「ルックJTBの決心。」です。「海外旅行は生まれ変わります。」をスローガンに航空会社も便名も、宿泊先のホテルもお申し込み時に確定。往復共に並び席をご用意し、お部屋のベッドはツインかダブルかを選択可能。ほかにも無理なショッピングにはお連れしないなど、7つのお約束をご提示しました。
旅行の質を上げたことにより、値段も上がりましたが、この大改革を進めた結果、低迷していたパッケージツアーの売上がぐっと上がったんです。

—— パッケージツアーの売上は、その後も順調だったのですか。

しばらくは伸びていましたが、再びチャレンジが必要な状況になりました。これはJTBの方針が間違っていたわけではなく、テクノロジーのスピードには勝てなかった。これに尽きると思います。
僕は2007年から2012年の5年間、ハワイに赴任していましたが、ウェブサイトの影響力はすさまじかったですよ。インターネットの普及以前、観光情報を誰よりも把握し、お伝えできたのは旅行会社でしたが、インターネットの登場により、知る人ぞ知るB級グルメも、安全性の面から旅行会社がおすすめできない裏道ルートも、誰でも入手できるようになった。
さらには航空券やホテルの直販も進み、個人手配が容易になりました。

それでもJTBはパッケージツアーを通じ、「ʻOLIʻOLIサービス」に象徴される「自由、快適、安心」をご提供してきた自負があります。
1964年、海外旅行自由化の当初から数々のパッケージツアーを企画し、さらには価格を下げるという旅行会社の取り組みは、間違いなく海外旅行の大衆化につながったはずです。

「誰でも当たり前に行ける」という土壌を築けたからこそ、お客様の「もっと自由に!」という次なる一歩を引き出せたのではないでしょう。パッケージツアーによって海外旅行が「当たり前」になったからこそ、個人旅行という「次の当たり前」が生まれた。これは僕たち旅行会社の誇りです。

旅の舞台は地球、主役は訪れる人と迎える人

—— 海外旅行、そして個人旅行を「当たり前」にしたJTB。今後はどんな海外旅行のかたちを描いているのでしょうか。

いま、地球規模の気候変動が進み、この世界や土地に根付いた文化をどう守り、次の世代に残していくのか。僕たちには、旅というものをいかに持続可能にするかが問われています。
それらを解決するための鍵となるのが「交流創造」。交流のかたちはさまざまですが、僕たちは「旅をする人と訪れる土地の人々が心を通わせること」が、旅行という素晴らしい体験を次の世代につなぐための力になるのではないか、と考えています。一人ひとりの心がけはもちろんですが、僕たちJTBも旅行という文化を持続可能にする企画を考え抜き、ご提供しなくてはいけません。

そうした考えのもと、2022年5月にリリースしたのが「つながり旅」と題したパッケージツアーです。
第1弾として発表した「こころで旅するカナダ Tsunagari tabi」というツアーではカナダのケベック州を訪れ、現地の名産品であるメープルシロップの生産者を訪ねます。原料であるカエデの森を歩き、シロップのおいしさの秘密もケベックに暮らす先住民の文化も、土地の生産者の方から直に聞けるんです。

経験を積み、旅を重ねた大人のお客様に向け、行って見るだけではない、「観る・知る・体験する」をご提供するツアー「おとな旅」、「いつかは訪れたい、体験したい」の実現をお手伝いする「Explore(エクスプロール)」というパッケージツアーも新設。

そこにあるのは物見遊山とは違う、人と人とのつながり。さらには、帰国後も旅行者と生産者がつながれるオンラインの場を設け、お互いの関係性をも持続可能にするための取り組みを進めています。

そうした関係性を育むために必要なのは「共感」です。「迎えてくれて、ありがとう」「来てくれて、ありがとう」。お互いが同じ「ありがとう」を心から言える関係性を構築するには、僕たちが創り出す「交流」の力が欠かせないはずです。思い立ったら吉日の、完全フリーの旅行も楽しい。でも、お互いにとってベストなプランを作るには、JTBが築き上げてきた各国との人脈やノウハウが生かせるはずだと信じています。

—— 旅行者も受け入れる側も、同じ「ありがとう」を言える関係。理想的ですね。

その気持ちがあれば、旅行者は「また行きたい」と思えるし、受け入れる側は「また来てほしい」と思える。これが持続可能な旅行のかたちではないでしょうか。僕たちは「共感」というキーワードを軸に、新たなパッケージツアーもリリースしました。

例えば、イスタンブールへの旅では、まずは現地の文化やイスラムの習慣を学ぶワークショップを受けてから、市井の人たちが行き交うバザールに繰り出します。ワークショップでの学びが、旅にさらなる深みを与えるんです。
質の高さもボリュームも、きっと個人旅行には負けません(笑)。そして、どんな奥地を訪れるような旅行でも、お客様の安心・安全を第一にできるのがJTBの強みです。

次の100年にも海外旅行をつなぐ、JTBの使命

—— それでは最後に、「次の100年」に向けた展望をお願いします。

テクノロジーの進化により、今は現地を訪れずとも世界中とつながれる時代です。若い世代の海外旅行離れも進んでいます。でも、JTBとしてはもちろん、僕個人としても、多くの皆さんに実際に足を運ぶ旅をしてほしいと強く願っています。現地に行って、見て聞いて触れて、嗅いで味わって、五感で感じてこそ得られるものが、海外旅行には必ずあります。

例えば、ハワイの青い海。よく聞く謳い文句ですが、ハワイの海は本当に青いんです。その理由は、可視光線量と湿度が絶妙なバランスを保っているから。この奇跡的なバランスから生まれる海の青さは、自分の目で見ないとわかりません。
ほかにも僕自身、海外でしか得られなかった経験がごまんとあります。最近だとモンゴルですね。現地の遊牧民の方がガイドをしてくださるツアーで、馬に乗ってモンゴルの砂漠を走ったんです。僕は乗馬経験がゼロ。でも、馬にまたがった瞬間、馬から「この感覚、わかるだろう?」という心の声が聞こえたんです。一気に、野生の本能が呼び覚まされましたね(笑)。この感覚も、きっと日本じゃ味わえない。

そうした海外旅行の価値を知る者として、その価値を伝え続けてきたJTBの一員として、やっぱり僕は、次の100年にも旅行を通じた出会いや感動をつないでいきたい。お互いの国を自由に往来でき、同じ気持ちで「ありがとう」を言い合える。この交流は、平和なくしては成り立たない。
海外旅行は平和の象徴なんです。この素晴らしき文化を次の100年にもつないでいくため、僕たちJTBは、持続可能な旅のかたちを考え続けます。

文:大谷享子
写真:鍵岡龍門
編集:花沢亜衣

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