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情熱を持ち続け、高いレベルのフェンシングをやり切りたい――松山恭助がグラン・パレの先に見たもの

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2024年8月4日。フランス、パリ。
1900年のパリ万博のために建てられた広大な展覧会場で世界遺産でもある「グラン・パレ」は、124年の時を経て、パリ2024オリンピック競技大会のフェンシング会場として連日熱気に包まれた。しかもフェンシングを国技とするフランスで、主役に躍り出たのは地元騎士たちではなく遠く日本からやってきたフェンサーたち。
個人、団体で日本代表のメダルラッシュが相次ぐなか、フィナーレを飾るのは男子フルーレ。団体戦に挑む日本代表のキャプテン、松山恭助は3回戦で敗れた個人戦のリベンジ。そして自身の目標を叶えるべく、夢の舞台に立った。

「何も変えなくていい」コーチの言葉に勇気づけられた団体戦

――代表決定から本番まで、松山選手はパリ2024オリンピック競技大会をどのような心情で迎えましたか。

シーズンが始まってからも最初はあえて大会のことは考えずに目の前の1試合1試合、1大会1大会に集中しようと思っていました。でもどこかで「この大会に出場しなきゃいけない」「出ることは最低限のミッションだ」とプレッシャーをかけすぎてしまい、思うような結果を出すことができず。その後、今年の4月に腰を負傷してしまって、コンディション的にはあまりいい状態ではなく、焦る気持ちがなかったといえば嘘になりますね。直前合宿まではまだ意識することなく調整できていましたが、開会式前日に選手村へ入った瞬間にすべてが変わりました。一気に0から100でやってきた。そこからは一気に大会モードになりました。

――大会開幕前には「グランパレのピストに立ったとき、どんな気持ちになるか楽しみだ」とおっしゃっていました。実際に会場へ入ったときはどんなことを感じましたか?

初めて試合会場へ入ったのが女子エペの行われる初日だったのですが、フランス国歌があちらこちらで歌われていたり、お客さんの盛り上がりがまさに圧巻。今思い返しても鳥肌が立つほどです。これまでのフェンシング会場とは比にならない観客の数でもあったので、衝撃を受けましたし、面食らいました。僕はサッカーが好きでよく試合を見るのですが、まさに同じ雰囲気でしたね。観客が一体になって応援しながら盛り上げて、いいプレーは称賛するし、相手に流れが行きそうになると失礼がない程度にブーイングが起こる。国民性として、スポーツを応援するのがうまいな、とあらためて実感しました。

――日本代表のメダルラッシュも続きました。プレッシャーはありませんでしたか?

(男子エペ個人の)加納(虹輝)選手の試合をリアルタイムでは見られず、テキストライブでスコアを見ていたのですが、彼は大会の前からその位置にいたので、金メダルを獲ってもいい意味で驚きはありませんでした。日本としては初めての個人のチャンピオンだったので、うらやましさもありましたし、自分もそこに続きたい、という気持ちもあった。
僕自身のことを言うと、目標は複数枚のメダルを獲得。そのうえで色がよければさらにいい、と思っていました。もちろん個人戦もメダルを狙って戦いましたが、結果的には届かなかった。数か月だけ目指してきたわけではなく、長い年月をかけてその日に勝つために準備してきたので、負けたときはすごく苦しかったですし、頭では理解していても負けを受け入れ、切り替えるのはすごく難しかったです。

――団体戦まで6日、どのように気持ちを切り替えたのでしょうか?

男子フルーレ団体戦は最終日だったので、結果を消化するという意味では時間をうまく使うことができたのかもしれません。とはいえ僕としては人生をかけて取りに行った試合で負けた後だったので、「団体戦があるから」と切り替えるのはとても難しかった。だからこそあえて、その苦しさ、ネガティブな感情を否定せず、すべて自分の正直な感情だと受け入れたことで、ようやく吹っ切ることができました。
本音を言えば気持ちはブルーでしたが、どんな感情も受け入れる。変に否定したり、無理をするのではなく、練習中はポジティブに。1人になったときはネガティブな感情も受け入れるようにしていました。

――苦しさや悔しさも受け入れて臨んだ団体戦、松山選手はもちろん日本選手、日本チームとして素晴らしい試合でした。

僕だけでなく、みんなが個人戦で結果を出せずに悔しくて、その悔しさや苦しさを受け入れて団体戦に臨んだ。みんな難しい時間を過ごしてきたんだな、と聞かなくても伝わってきたし、女子フルーレ、男子エペ、女子サーブルとメダル獲得が続いていたので、プレッシャーもありました。みんなが抱えている感情、問題が同じであるなか、試合前夜にエルワン・ルペシューコーチに言われた言葉が僕にとって本当に大きかったです。

――どのような言葉だったのでしょう。

「世界選手権、アジア選手権、ワールドカップ。今までの大会で自分たちの力を証明してきたし、金メダルも獲っている。そして世界ランキング1位のチームとして明日の団体戦を迎える。だから君たちが今まで積み上げてきたもの、証明してきたことを何も変えないでくれ。特別なことなど何もいらないから、これまでの1試合1試合、目の前の1人1人の相手に対してそれぞれの強みをぶつけて、つないで行け」と。
その瞬間、みんなのスイッチが入りました。僕自身もまさにそうで、コンディション的にベストではなく、正直に言えば不安もありました。「個人戦と同じようなパフォーマンスでは勝てないんじゃないか」と思っていたのですが、エルワンからは「何も心配していないから変えないでくれ」と言われて、これでいいんだ、と思えた。彼の経験から来る言葉はひと言ひと言がシンプルなんですけど、深みがある。僕たちにとっては本当に大きな意味のある言葉でした。

――松山選手ご自身が「キャプテン」として働きかけたことはありましたか?

1人1人とコミュニケーションを取ることはいつも以上に心がけていて、今回はあえて「悔しい」「絶対に勝とう」と、自分の気持ちを伝えていました。「みんな同じ気持ちだよね」と。普段はそういうことは言わないですが、そのときはあえて口にした。個人戦で結果が出なかった悔しさと、メダルを絶対に取りたいという思い、そこにかかるプレッシャー。抱える問題は一緒だったので、隠すのではなく受け入れてこそ本当に強いチームになれる、と思っていました。

――結果的に男子フルーレ日本代表チームは本当に強いチームとなり、金メダルを獲得しました。「勝てる」と思った瞬間はありましたか?

とにかく必死だったので、「勝てる」と思った瞬間は最後の最後までなかった。それぐらい余裕がなかったです。優勝したときも嬉しかったですが、準決勝でフランスに勝利(45対37)したときにメダルが確定したので「よかった」と思ったし、ホッとしましたね。今思えば、それぐらいプレッシャーがすごかったんだと思います。自分がメダリストになれたということよりも「これでメダルが取れる、最低限の目標をクリアできてよかった」という安堵感が先でした。

――金メダルが確定した瞬間はどのような気持ちだったのでしょうか。

ベルーナドームでのセレモニアルピッチの様子

勝った?と喜びよりも信じられない。驚きの感情でした。実感した瞬間があったとしたら、表彰式ですね。入場前に銀メダルと銅メダルを見た時点で「すごいな」と思っていたのですが、金メダルの輝きはもっとすごかった。「これ、俺らが今からもらえるんだよね?」とチームメイトと話したのも覚えています。あらためて映像を見返すといろんな感情が蘇るのですが、あのときはそこにいるだけで精一杯でした。もうちょっと客観的に「今、表彰台の一番上にいるんだ」ということを噛みしめたかったですね(笑)。
でも日本で応援してくれていた多くの方からも「フェンシングがすごく盛り上がっていた」と聞いて、僕らはフランスにいたのでその実感もなかったのですが、帰国してニュースや記事を見たり、取材やイベントの機会をいただいて、盛り上がっていたんだ、ということを実感できた。個人的には埼玉西武ライオンズの大ファンなので、ベルーナドームでセレモニアルピッチができたことも、とても嬉しかったです(笑)

1人の選手、金メダリストとして「フェンシングを盛り上げたい」

――これからも現役生活を続けていくなかで、金メダルを獲得できたというのは松山選手にとってどのような意味を持っているのでしょうか。

生涯のうちに金メダルを取りたいと思い続けてきて、それを1つクリアした。そのうえで、これからもキャリアを続けていけるというのはものすごく大きなアドバンテージだと思っています。フェンシングをより純粋に楽しむ、成長するために、余計なことを考えずにできるということがすごく大きいですよね。フェンシング選手として歩むキャリアのなかで、大事なものが1つ取れた。これからのフェンシング人生でとても価値のあることだと思っています。

――これで終わりではなく、むしろこれからに続く金メダルでもあるということですね。

そうですね。もちろん1人の選手として僕が目指すのは、まず個人戦でグランドスラム(世界選手権、グランプリ、ワールドカップ、大陸選手権)を達成すること。でもそれ以上に大切なのが、フェンシング選手として成長することです。だから、メダルを獲れても終わりじゃないし、フェンシング選手として強くなることを目指して、その過程で結果を出し続けていきたいし、長く続けたい。その思いが、今の自分の選手としての原動力です。

――パリで日本フェンシングが獲得したメダル数は17個(個人1、団体4種目×4選手)。過去最多のメダリストが出ました。競技普及のチャンスでもありますね。

選手として頑張る、結果を求めることはもちろんですが、これからは自分のことだけやっていればいいというわけではなく、次世代へいかにつなげられるか。子どもたちがフェンシングをできる環境をつくる、今フェンシングをしている子たちにもっと働きかけていくとか、自身ができる範囲でも大事な活動がたくさんあると思っています。子どもたちの目線で見れば、メダリストに接することで「自分もフェンシングを頑張って世界を目指そう」と新たな夢につながっていくかもしれない。選手としての自分に軸を置きながらも、できることは積極的にチャレンジしたいです。

――現時点でのイメージはありますか?

僕の出身地である(東京都)台東区でもフェンシングクラブをつくる動きが出ていると聞きました。もとをただせば僕が言ったことなので、やるしかないですよね(笑)。スクールが増える、クラブが増えるというのは、やはりこの結果があってこそだと思っているので、メダリストが16人いるからこそできることを考えたいです。フェンシングを盛り上げたい、という思いは常にありますね。

早稲田大を卒業後、松山は「JTB」所属の選手として世界の舞台で戦い続けてきた。結果が出るときばかりでなく、苦しいときも支え、ときに海外での試合時には「現地支店の方がお弁当を差し入れてくれたのが本当に嬉しく、JTBの選手であることが誇らしかった」と語るなど、常に感謝の気持ちを言葉にして表してきた。
共に歩んだ6年、松山にとってJTBはどんな存在であったのか。アスリートの立場から、素直な思いを語った。

自分の可能性を信じて、ともに歩んでくれたJTBに恩返しをしたかった

――パリでの大会を終え、あらためてJTBに対する思いを聞かせてください

サポートしていただくようになったのは、東京に出場する前から。フェンシング選手としてキャリアがまだまだの状態であったにも関わらず、僕の可能性を信じてサポートしていただいたことに対して、感謝しかありません。そのおかげで僕は競技に対して集中できる環境に恵まれた。感謝を示すためにも、今回の大会で勝つことが1つの恩返しだと思ってきたので、それが達成できてあらためてよかったと思いますし、本当にありがたく思っています。世界を目指したくてもできない選手も多くいるなか、自分は心配することなく、余計なことを考えずにフェンシングに打ち込んで結果を出すことだけに集中できた。だからこそ得られた結果だと心から思っています。

――大会期間中も多くの社員の方々が応援していました。祝勝会ではメダルをご持参され、大変喜ばれたそうですね。

日本では深夜3時過ぎからの中継でしたので、お仕事をしながらかなり大変だったと思いますが(笑)、応援の大きさを実感した大会でもありました。正直なところ、自身ではメダルのありがたみを忘れかけてしまうときもあるのですが、実際に見ていただくと皆さん喜んでくれるので、そのたびにメダルをもらったときの気持ちを思い出すことができます。ありがたいですし、目の前で喜んでいただけるのはやはりうれしいですね。

――あらためて今後に向けて、もっとこんなところを見せていきたい、というところはありますか?

フェンシング競技は、今回のような大きな国際大会でしか見られない競技なので、裾野を拡大するのが難しいんです。でも繰り返すようですが、これだけメダリストが出た今はチャンスでもあるので、いかにきっかけをつくれるかは大切かなと。メディア露出はもちろんですが、やはり結果を出すことも大切なので、選手としてはグランドスラムを達成することがすべてだと思っています。僕はフェンシングが好きで、長く続けたいと思っていますが、そこには実力と情熱が伴っていなければいけない。この2つが欠けたときが、キャリアが終わる瞬間だと思っているので、情熱を持ち続け、高いレベルのフェンシングをやり切りたい。できるだけ長く現役選手であり続けたいと思っていますので、JTBの方々と一緒に歩んでいきたいと思っています。

――最後に、読者の方々へメッセージをお願いします!

いつも応援ありがとうございます。2019年4月からJTBにスポンサー契約をしていただき、2年後の東京では無観客ではありましたがたくさんの応援をいただきました。そのときは残念ながら結果を残すことができませんでしたが、あれから3年、さまざまな機会を通して少しずつ僕の存在を知っていただき、東京大会以上の応援が力になり、「やりきるだけだ」と強い気持ちでパリに臨むことができました。金メダルを取ってJTBの方々からも「おめでとう!」と温かく出迎えていただいたことが本当に嬉しかったですし、自分の可能性を信じてサポートしてくださる方にそう言ってもらえることがどれだけ幸せなことかも実感しました。スポーツが持っている力の大きさを僕自身も感じたので、これからも多くの方々と話をしたり、金メダルを見ていただき、互いに刺激し合える関係を築くことで、僕も選手としてさらに高いレベルを目指したいです。

文:田中夕子
写真:大童鉄平

株式会社JTBは、公益財団法人日本オリンピック委員会(会長:山下 泰裕)と、2025年1月1日から2028年12月31日までの4年間、TEAM JAPANの公式旅行代理店として契約を締結しております。

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