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野球と旅、「体験できる場」を未来に残していくためにそれぞれが果たす役割

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日本中を熱狂の渦に巻き込んだ2023年のWBC(ワールドベースボールクラシック)。スポーツには感動を生み出すエネルギーがあります。日本代表を率いるだけでなく、北海道日本ハムファイターズの本拠地であるエスコンフィールドHOKKAIDOの設立や、栗山町での「栗の樹ファーム」など、まさに地域創生を地で行くスポーツと街づくりに尽力し、現在は北海道日本ハムファイターズでチーフ・ベースボール・オフィサーとして活躍する栗山英樹氏と、社長の山北が語り合いました。

栗山 英樹

1961年東京都生まれ。創価高校、東京学芸大を経て84年ヤクルトスワローズへ入団。89年にゴールデングラブ賞を獲得し、90年シーズン限りで現役引退。引退後はスポーツキャスター、白鷗大教授などを歴任。2012年に北海道日本ハムファイターズの監督に就任し、2021年までの10年間でパ・リーグ優勝2度。2016年には日本一に輝き、正力松太郎賞を受賞。2022年から野球日本代表「侍ジャパン」トップチームの監督を務め、2023年の第5回WBCで3大会ぶりの優勝を果たした。2024年に北海道日本ハムファイターズのチーム編成と運営の最高責任者となるチーフ・ベースボール・オフィサー(CBO)に就任。

株式会社JTB 代表取締役社長 山北 栄二郎

旅と野球を満喫できるエスコンフィールド

写真=椋尾 詩

山北:このたびはありがとうございます。栗山さんが監督を務めた(2023年の)WBCもずっと応援していましたし、エスコンフィールドも建設段階から何度もお邪魔しました。私も高校まで野球をしていましたので、お目にかかれるのを楽しみにしていました。

栗山:こちらこそお招きいただきありがとうございます。手前みそですが、エスコンフィールドは世界の球場を見渡しても、一番のスタジアムだと思っています。

山北:おっしゃる通り、足を踏み入れるだけでドキドキするような素晴らしい球場ですよね。3塁側と、ネット裏からそれぞれ試合を拝見したのですが、距離が近いので自分もグラウンドに立っているような気持ちになりました。

栗山:僕自身も、子どもの頃にこんな球場を夢見ていました。エスコンフィールドは観客の方々にとって見やすい球場であるのはもちろんですが、野球をする選手や現場の意見も取り入れてゼロからつくった球場です。僕もこんな素晴らしい場所で野球がしたかった、というのが正直な思いです(笑)。

山北:多彩なレストランがあって、観戦チケットを持っていなくても、入場券さえあれば入って来られる。しかも小学生以下は入場無料なんですよね。 大谷翔平選手やダルビッシュ有選手の壁画もあり、とてもオープンなので、地元の北広島の街と一体になっている印象を受けました。何より旅行会社の立場としては、北広島という場所にできたことも魅力的です。新千歳空港と札幌の間に位置し、北海道観光の拠点にもなる、他にない立地ですからね。

栗山:それは非常にうれしいお話です。関東や関西から飛行機で来て、野球を見て観光する。もしくは北海道を観光して最後に野球を見て帰る。エスコンフィールドを拠点に、いろいろな楽しみ方が広がっていけば、我々もうれしいです。

山北:大谷翔平選手の活躍もあり、日本のファンにとって、メジャーリーグも身近になりました。私もヤンキー・スタジアムや、ドジャー・スタジアムには何度も足を運んだことがありますが、球場に着くだけでワクワクする。あの興奮は当社のブランドスローガンである「感動のそばに、いつも。」をまさに体現するものです。

栗山:特にアメリカは野球との関わりが深く、球場の演出だけでなく、歴史も含め「楽しむ」文化が育まれています。その素晴らしい場所で感動のシーンを目の当たりにする。その瞬間は永遠とも言えるほど尊いものです。まさに旅も同じ。行きたかった場所にたどり着いた瞬間の興奮や感動は、代えがたいものですね。

山北:特にロサンゼルスの一部エリアは「リトルトーキョー」と言われ、かつて日系人の方も多くいらっしゃった「心のふるさと」とも言うべき場所でした。食事も素晴らしく、古き良き日本を感じるような場所もあり、ハリウッドというアメリカの華やかな世界も一緒に味わえる。その地で大谷選手と山本由伸選手 がプレーしているのも、日本人として誇らしい限りです。

栗山:僕が現役時代、アリゾナ州のユマという場所でキャンプをしていました。それこそ当時は1ドル250円時代で、キャンプとはいえ、アメリカへ行くこと自体が海外旅行へ行くような感覚だったのです。オフの日はリトルトーキョーで日本食ばかり食べて、特にニューオータニの和定食を食べられるのが楽しみでした(笑)。WBCのときはロサンゼルスからサンディエゴへ車で移動したのですが、あの広い道を走るだけでアメリカに来たんだ、という高揚感がありました。若い方々にとってはピンと来ないかもしれませんが、僕らの世代にとって海外旅行は夢でした。立場が代わり、仕事で行くときでさえ、純粋にワクワクしますし、さまざまな土地でいろいろな人がいることを知り、新たな文化に触れて「いいなぁ」と胸が躍る。それだけでも感性が豊かになりますね。

山北:アメリカは憧れでしたね。私も1ドル250円時代をよく存じていますし、アメリカに行く機会も多くありましたが、栗山さんと同じように私も道路の広さに感銘を受けました。道の周りには砂漠が広がっていて、7車線くらいの広い道路がある。それだけでもスケールの大きさを感じました。

大きな決断をしたのではなく「縁に恵まれた」

栗山:人は初めての場所へ行くことや、初めての人に出会えるというのがとてもプラスになりますよね。旅行業界というのはとても素敵な世界です。僕も学生の頃に、旅行会社へ入るという発想を持っていればよかった、と、お話を伺いながら考えてしまいました(笑)。

山北:栗山さんは東京学芸大学のご出身とお聞きしております。卒業後に教員を志す学生さんが多い環境のなか、プロ野球の道へ進もうと決断された理由は何だったのでしょうか。

栗山:当時はとにかく「野球を続けたい」という一心でした。他にもやりたいことや興味のあることはありましたが、野球は今しかできない。僕は自分から動かなければ続けられないレベルの選手でしたから、プロ野球や社会人野球チームのテストを受けて回る。とにかく大好きな野球を辞めたくなかったので、可能性を探るなか、たまたま引っかかった、というのが現実でした。

山北:栗山さんの著書を拝読した際、すごい決断をされたのだろうな、と思っていました。私も学生時代までは野球に打ち込んでいましたが、そのまま野球の道で生きていく選択肢などありませんでした。それでもやはり、子どもの頃から野球が大好きでしたので、実は大学でも野球を続けようかと考えたことはありました。ですが同時期に、国際交流にも興味があった。国際交流ができるような勉強をしたいと思い、大学では英語を学ぶ道に進み、いわば体育会系から文化系へと転身しました。それからは日本の方はもちろん、世界各国のさまざまな人たち、留学で日本へ来ていた人たちと交流するようになり、世界中の人々とつながり合う世界に行きたい、と思い、現在に至ります 。正直申し上げますと、当時は旅行会社へ入ろうと強く思っていたわけではなく、他の業種も選択肢の中には含まれていました。ですが、入社試験を受ける際、実際に国際電話や当時あったテレックス で海外とやりとりしている社員の働く様子を目の当たりにして、リアルに国際交流をしている姿に魅力を感じて入社を決めました。これも1つのご縁ですね。

栗山:現場でなされているものこそが、最も具体的で現実的なやりとりですよね。

山北:もう1つお伺いしたいのですが、選手から監督への転身はどのように決断されたのですか?

栗山:これも僕が何かをした、というよりもご縁に恵まれ、至った、というのが本当のところです。選手としては全然ダメだった、当時の(現役時代の)僕を知っている方ならば誰もが「栗山が監督をする」など考えもしなかったはずです。その僕にチャンスをくださったファイターズの決断はすごいことだと思います。30歳で現役を引退して、これから何をしようかと思ったとき、まず考えたのが、いろんな人と会いたい、本物は何か現場で見たい、足を運んで感じたい、ということでした。それが叶えられるのはどこか、と考えたとき、メディアの世界ではないかと思い飛び込んだ。そして結果としてテレビのお仕事をいただけたという感じです。 そもそも当時は監督をやろうという考え自体がありませんでしたし、大好きな野球を勉強するなかで、たまたまご縁に恵まれて、監督という道へ進むことができた。大前提として、監督というのは「やりたい」「やらせてください」と言って、できるものではありません。そのような大層な職業、ポジションを自分ができるのだろうか、という怖さ、覚悟はありましたが、怖いもの見たさと言いますか。何事も経験しなければわからないと思っていたので、監督をやらないか、というお話をいただいたとき、もし許されるのならば前に進み、引き受けたいという思いがありました。

山北:なるほど。どういうきっかけかは人それぞれ、いろいろなものがありますが、栗山さんのなかに「人と触れていたい」という気持ちがあり、出会いによって人生が決まっていく。なるべくしてなられたのだな、と納得しました。

栗山:いえいえ、本当に縁に恵まれました。たまたま僕が北海道の栗山町に野球場をつくったりしているのを見ていた方がいて、やらせてみようかな、と思ったようです。とはいえ僕は繰り返すようですが、現役時代に大した実績がある選手ではありませんでした。最初は、僕の話など選手は聞いてくれるのだろうか、という怖さはものすごくありました。

リーダーとして最初の仕事は1人1人との対話

栗山:ファイターズの監督として最初に選手と接した日、その日が一番緊張したので、今でもはっきり覚えているのですが、2011年11月11日、全選手を集めて、その前で監督をやります、と話をしました。今まで取材者として取材させてもらっていた選手のなかで、急に監督になる。まずは自分が監督としてファイターズで何をしたらいいか教えてください、という思いを込めて、全選手と面談しました。年齢が上の選手から順に話をするので、歳の若い選手たちは何時間も待たされる。そのなかに、翌年からメジャーリーグへの挑戦が決まっていたダルビッシュ有選手もいました。彼は僕が監督として指揮を執る次のシーズンにはいないも関わらず、何時間も待っていてくれたうえに、面談でもチームの現状を伝え、こうしたほうがいいのではないですか、と具体的に話をしてくれました。若い頃は誤解されることも多かった選手ですが、そういう姿こそが、彼の本質でもある。ですから、僕はそのとき、彼に言ったんです。「俺、一生に一回だけ 夢がある。1回でいいからメンバー表に先発ダルビッシュと書きたいんだ」と。

山北:その夢が、後にWBCで叶うわけですか。

栗山:そうです。そして彼のおかげでWBCも勝たせてもらいました。そもそも僕は日本ハムで監督になったときも、最初はコーチも連れて行かず、単身乗り込んだので不安ばかりでした。コーチ陣は優秀な人材が揃っていることをわかっていたからです。でも周りからすれば「大丈夫?」と思われますよね(笑)。監督として自分が何かをしたというのはおこがましく、周りの方々に助けられたというのが心からの本音です。

山北:とてもよくわかります。私もヨーロッパの支社に長年赴任していて、突然帰ってきて社長に就任しました。しかも2020年4月、時代はコロナ禍でしたから、今このときに旅行業界として何をすればいいのか。そもそも以前共に働いていた人たちも、長年海外にいた自分のことなど忘れているかもしれない。受け入れる側からすれば、よく知らない人が突然やってきた、という状態なのではないか、と思ったので、役員はもちろんですが、全国に130人ほどいる支店長たち、1人1人と最初に話をしました。時間がかかる作業ではありますが、これしかない、と。その原点とも言うべき経験をしたのが、ハンガリー支社長に赴任したときです。全く言葉も通じず、全く文化も考えも違う人たち のなかで、社長としてどうしたらいいかと考えたとき、自分が教えてもらうしかない、というところからスタートしました。仕事の面はもちろんですが、スーパーで買い物をするにも英語で書いてあるわけではなく、シャンプー1つ購入するのも大変な状況です(笑)。なので、一緒にスーパーに来てもらって買い物の手伝いをしてもらった。そして仕事も1つ1つ、これは何か、どうすればいいのか、というところから人間関係を構築していきました。結果的に気持ちが通じるようになるまで半年ほどかかりましたが、その経験があったので帰国して社長に就任したときも同じように、1人1人と丁寧に話をすることからスタートしました。

栗山:山北社長のように、さまざまな世界、場所で実績を持たれて社長になられた、誰もが納得する形でトップになった方が対話をする、という姿勢は素晴らしいですね。僕の場合は大げさではなく、できることがそれしかありませんでした。監督として何ができるなど考えたこともなく、とにかくやるのは 現場の選手であり、身近に接するコーチ陣です。その人たちに頑張ってもらうために自分は何ができるか、ということだけを考えてきたつもりです。

山北:WBCを拝見していても、選手の皆さんが普段以上の力を発揮されているのを素人ながら感じていました。その背景には、栗山さんのご指導があるからだろうな、と。管理して、押さえる形のリーダーシップもありますが、栗山さんの場合はそうではない。皆さん生き生きとした姿でやられていたので、本当に素晴らしいチームだなと思って観戦していました。

栗山:僕は本当に何もしていないんですよ(笑)。ただ、キャプテンを決めない、と選手に伝えたとき、ダルから「監督、あれいいですね」と言われました。格好つけるわけではなく、僕は本心で全員がキャプテンという意識を持ってもらったほうがいいと思っていましたし、ここは自分たちのチームで、自分の力で勝つんだ、という意識を持ってほしかった。もしかしたらその決断が失敗する可能性もあったかもしれませんが、僕はそれが大事だと思って決めた。そうしたらまさに選手たちの力で勝たせてもらえました。

「最高の遊び場」栗の樹ファームから描く未来

山北:プロ野球チームや日本代表チームの監督として指揮を執られるだけでなく、2002年には栗山町に「栗の樹ファーム」を設立されました。どのような構想からスタートしたのでしょうか?

栗山:最初は個人的な思いからスタートしたので、そう大層なものではありません。僕はアメリカの映画「フィールドオブドリームス」が大好きで、引退のきっかけにもなったほどなのですが、その映画のなかで主人公がトウモロコシ畑に野球場を建設するんです。 それで、あの世界を知るためには一度アメリカへ、あの場所へ行かなければわからない、と思ったので、実際にトウモロコシ畑を切り拓いてつくられた球場へ行ってみました。そうしたらたまたま日本と台湾、アメリカの子どもたちが遊んでいて、ごく自然に、言葉も通じないのに2つのグループに分かれて野球を始めたんです。その光景を見ていたら、ものすごく感動して、こういう場を日本でもつくったら、子どもたちは野球を通じて一生の仲間になれるのではないか、と思いました。ですが現実的に僕が持っている資金では、都心から離れた山の中に行かなければそんな場所はつくれない。たどり着いたのが北海道の栗山町で、芝を刈ったり、木を植えたり、すべて自分でやっているのですが、僕にとっては最高の遊び場ですね。

山北:私はまだ伺ったことがないのですが、ホームページを拝見して、ここはぜひお伺いしたい、と思っている場所です。

栗山:ぜひいらしてください。エスコンフィールドから25分ぐらいです。そんなに立派なものではないのですが、野球が好きな方には何か伝わるものがある場所だと思っています。僕も栗山町で生活をしているのですが、皆さんとても親切で温かい。町の皆さんが応援してくださるのでとても活動しやすく、暮らしやすい場所です。

山北:今の時代は地域交流が大きなテーマであり、私たちも さまざまな活動を行っていますが、栗山さんは実質的に子どもが触れ合うことのできる場所をつくり、そこに自分もいらっしゃる。飾り気なく、思いがある人たちが集まる場ができているのが本当に素晴らしいです。

栗山:次々にやることが出てくるので、僕自身も楽しんでいます。現役を引退した斎藤佑樹元投手も実際に来てくれたのですが、彼も同じようなことを考えていて、今、実際に球場をつくろうとしています。今の時代は気軽にキャッチボールや野球をする場所もないので、彼も球場をつくることで、野球をする場所を少しでも増やしたい、という思いを実現させようとしています。僕よりはるかに影響力のある彼らが、そうやって未来のために動いてくれていることは、本当に素晴らしく、心強いですね。

山北:確かに今の時代は野球をする場所自体が少ないですよね。私が子どもの頃は空き地や公園など、やろうと思えばいくらでもキャッチボールや野球のできる場所がありました。

栗山:おっしゃる通りです。我々の立場は、自分が子どもの頃にプロ野球選手を見て夢を持って生きてきたように、これからの世代、子どもたちが夢見て「こうなりたい」と思えるものを残す責任があると思っています。みんなが遊ぶ公園でキャッチボール、ボール遊びすらできないというのは大きな問題です。

山北:場を残していく、というのはまさに旅行業界も直面する課題です。旅先も同じで、人が思い出をつくり人格形成をするための機会や場がだんだん少なくなっているのが現実です。ここをどうやって保ち、交流の場をつくっていくか。これは私の経験であり考えなのですが、子供のころ、暑い日に土埃のなかで野球をした記憶は身体にも刷り込まれていて、その感覚や感性が自分という人間をつくっている気がするんです。そんな身体に刷り込まれるような記憶をつくれる場を、これからも提供し続けていきたいですね。

栗山:何かを成し遂げた方々は「旅に出なさい」と必ず言います。本を読むのも大切なことですが、旅に出ることでしか得られないものもたくさんある、と。社長がおっしゃるように、その場所で身体が感じる土埃と汗ではないですが、現場にしか答えはない。僕も今すぐ旅に出たくなりました(笑)。人がその場に行く、身体で感じる。どれだけ時代が進化して変化しようと、一番大切なことはそこにあると、僕も思いますね。

山北:旅もスポーツも奥行きがあったほうが面白い。まずはリアルを感じて、そこからさらに感心が高まってもっと深く知ったり、自分でこんなことをやってみたい、と世界を広げていただきたい。それがスポーツ人口の増加にもつながり、人々も今まで以上に豊かな心を持つようになれるかもしれませんね。そのきっかけをどんどん広げていきたいと思います。

栗山:僕個人としては、山北社長のように語学が堪能な方でもヨーロッパで言葉に困ったと聞き、僕の語学力でもどこへでも行っていいんだ、と背中を押していただきました(笑)。本当にありがとうございました。

山北:いえいえ(笑)栗山さんのコミュニケーション力があればどんな世界でもご活躍されることと思います。本日は大変貴重なお話をありがとうございました。

写真:小林廉宜
文:田中夕子

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