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栄光と葛藤の狭間でもがき、飛躍を遂げた松山恭助。
家族と仲間の支えを背に、フェンシングの聖地"パリ"での勝利に向かい邁進する。

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その決定的な瞬間に何が起こっていたのか。その瞬間に至るまでに、一体どんな想いがあったのかーー。
今回はスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」制作陣の協力を得て、JTB所属のフェンシング選手、男子フルーレ日本代表の松山選手にインタビューしました。

プレイ、アレ。

フェンシングは、フランス語で「始め」の合図とともに戦いが始まる。マスクで表情は隠れているが、一瞬の隙も逃さぬようにらみ合う中、至近距離で攻防を繰り広げるからこそ、いかなるときも熱く、冷静に――。

男子フルーレ日本代表、松山恭助が心がけるのも「平常心」だ。

「いろんなことを経験して、自分の性格も本当の意味で理解してきた。僕はあまり考えすぎず、ありのまま。目の前の試合に集中しながらもリラックスして、最大限自分を解放してピスト(※)の上で表現する。それが、ベストの勝ち方だと思えるようになりました」

※ フェンシングに使用される競技の場

等身大の自分で、挑むだけ。まさに有言実行とばかりに、2023年7月にイタリア、ミラノで行われた世界選手権では個人戦で銅メダル、団体戦で金メダルを獲得し、現在男子フルーレ団体の世界ランキングは日本が1位(※)自身初に留まらず、日本フェンシング界としても史上初の快挙なのだが、気負うことはなく、世界の頂を見上げるでもなく、松山はまっすぐに見据えている。

※ 2023年12月5日時点

「世界ランク1位になりたいとか、ここで金メダルを獲る、と意気込んで臨んだわけではなかった。むしろこれほど早く世界ランク1位になれると考えもしませんでした。いろいろなことがかみ合って、今につながっているんです」

Ⓒ日本フェンシング協会/竹見脩吾

フェンシングとの出会い、兄との切磋琢磨

1996年12月生まれ。今年27歳になる松山がフェンシングと出会ったのは4歳のときだ。

東京・浅草で生まれ育ち 、両親共にフェンシング経験者ではない。だが近所に総合型地域スポーツクラブがあり、その中にフェンシングクラブも含まれていた。

最初は母に勧められ何気なく始めたのだが、年上の選手に囲まれて練習を重ねる中、負けず嫌いの闘争心に火がついた。

「4歳だったので、必然的に大人と対戦する。その状況でも負けるのが嫌いだったのは覚えています。自分ではそれが普通だと思っていましたが、成長してから周りを見ると結構負けず嫌いだったんだな、と(笑)。負けて泣くことはなかったですけど、勝つまでトライする子どもでした」

小学2年生で全国大会初優勝。勝つことの喜びを味わってからは2歳上の兄、大助さんと切磋琢磨しながら、日本国内に留まらず戦う場は一気に世界へ広がった。

「勝つのが当たり前だったので、勝てるかな、とか、負けたらどうしよう、と考えること自体なかった。大げさじゃなく、大会に出たら勝ってメダルを持って帰るもの、と思っていたので『今日は優勝するぞ』と意気込むこともありませんでした」

いわば敵なし。無双状態。ならば必然的に目標は定まる。

「地元のケーブルテレビが取材に来たときも、周りの選手が『将来はオリンピック選手になりたい』と話しているのを聞いて、オリンピックが何かよくわかっていなかったけれど自分も同じように『オリンピック』と口にしていました。でも当時の僕にとっては、それも自然な流れ。子どもの頃から負けなしで勝ち続けていたので、当然自分が日本のエースになる、オリンピックに出てメダルを獲るんだ、と疑わずに信じていました」

Ⓒ日本フェンシング協会/竹見脩吾

勝ち続けてきた先に、立ちはだかった大きな壁

小学5年生から世界大会に出場し、高校2年時にはU17の世界選手権を制した。加えて、東亜学園高1年時から3年時まで男子フルーレ個人戦で3連覇を達成。北京2008オリンピックで銀メダルを獲得し、日本フェンシング界の絶対エースでもあった太田雄貴氏に続く快挙だった。

同時期にシニア代表にも選出され、太田氏と共に団体戦のメンバーにも抜擢された。松山いわく、最初の試合は「ビギナーズラックで勝てた」と振り返るが、世界トップレベルの強さを目の当たりにしたのはそこから。カデ、ジュニアなど年齢制限(※)があった世界大会とは異なり、円熟した選手が揃うシニアの個人戦で勝つことは容易ではない。

※ カデ:13歳以上17歳未満/ジュニア:17歳以上20歳未満

それまで勝ち続けてきた松山にとって、それだけでも大きな壁だったが17年の世界選手権で自身より1歳下の西藤俊哉が銀メダル、敷根崇裕が銅メダルを獲得したことにも少なからぬショックを受けた。

「すごくジェラシーがありました。どうして自分はダメなんだろう、何がダメなんだろう、と自問自答ばかり。それまでは普通に勝てていた分、楽観的すぎたのかもしれませんが、とにかく勝たなきゃ、勝たないと、と焦りが出始めた。フェンシング選手としての成長よりも、結果ばかり追いかけてしまう自分がいました」

Ⓒ日本フェンシング協会/竹見脩吾

大学時代はまさに「出口が見えない」苦悩の時期。中高生の頃は勝って当たり前だった国内の試合もなかなか勝つことができず、太田氏の引退後、日本代表のキャプテンとして先頭に立つも、「自分が太田さんのようになれるのか」とプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。

世界一どころか、暗闇からの出口すら見えない時期。弱さや苦しさは見せないように。懸命に自分を奮い立たせるなか、やはり一番の支えになってくれたのはコーチも務める兄や両親だった。さらに大学卒業後からは、所属企業として、JTBも松山の競技人生をサポートすることになる。

しかしJTBがなぜ松山の所属企業になったのか――。JTBの担当者は「松山選手のひたむきさに心を打たれた」と語る。いまJTBは「交流創造事業」を事業ドメインとして掲げ、その一つとして社を挙げてスポーツ事業に取り組んでいる。それは、スポーツには人々に感動を与える力があり、それらの感動をどうやって人々に届けるかを責務のひとつだと考えているからだ。
努力することの大切さ、規律を守る精神、世の中を明るくする力。松山はJTBにとってまさにそれらを体現する選手だったという。

苦境で支えとなった家族とJTBの仲間

「自分が苦しんでいたときは家族も苦しんで、心配していたと思います。でも僕にはそんな姿を見せず、いつも僕を信じてくれた。JTBの方々も同じで、僕がフェンシングに最大限集中できる環境を与えて下さっただけでなく、海外で試合がある時にも、現地の支店や、大会の添乗業務にあたっているJTBの方々が『頑張って』と応援してくれる。なかなか結果が出せずにいる僕に対しても『やるべきことをやればいい』というスタンスで見守って下さったことが、本当にありがたかったです。どれだけ苦しくても自分の好きなことを仕事にできて、支えてくれる人たちがいる。これ以上幸せなことはないし、関わって下さるすべての方が、僕にとってかけがえのない存在でした」

苦悩しながらも前へ。長いトンネルに、ようやく光明が差したのはコロナ禍で制限があるなかでの戦いを余儀なくされた21年3月にカタールのドーハで開催されたグランプリ大会だった。

応援してくれる人たちの期待に応えるべく、その夏開催される予定だった東京2020オリンピックに向け、思いつく限りのことをすべてやり尽くして臨む。その一環として強い覚悟と「これ以上できることはない」と思うほど自分を追い込み迎えた大会の個人戦。トーナメントの初戦で、松山はまさかの敗退を喫した。

これまで経験したことがないほどストイックに、周囲からも「やりすぎではないか」と心配されながらも自身を追い込んだにもかかわらず、勝つことができない。

「自分のことをナイフでグサグサ刺しているような状態で、とにかく心が痛かった。負けた瞬間も泣いて、会場から親に電話をしながらも涙が止まらなかったし、『こんなにやってきたのに勝てないのか』と、部屋に帰ってからも1人でずっと泣いていたんです。でも思い返せばグランプリが始まる前に燃え尽き症候群というか、ガソリンも空っぽ、エネルギーもない状態まで追い込まれていた。そのときに、たとえ限界までやったとしても結果が出るとは限らない、もっと余裕を持って、広い視野で客観視しながら、追い込むところは追い込む、とスタンスを変えたほうがいいのではないかと思うようになった。失敗をして、ようやく気づくことができました」

改めて思い返せば、幼少期から「勝ち続けてきた」経験も仇になっていた。松山はそう言う。

「負けたときの立ち上がり方がわからなかったんです。どこか天狗にもなっていて、勝って当然、という感覚だったから、頑張って練習してマインドセットを整えて勝った、という経験もなかった。だから躓いたんです。勝てなくて、思い通りのフェンシングができなくて、それこそ自分のアイデンティティを見失うぐらいにもがいて、ぐちゃぐちゃになった。勝てなかったことよりも、自分を見失っていたことが一番苦しかった。東京2020オリンピックの個人戦、団体戦もあと少しのところで勝てなくて、それこそそのときも心をナイフでグサグサ刺すぐらいの状況でしたけど(笑)、でも今思えば、あのときは勝てなくて当然でした。どんなに頑張ってもあれがマキシマムだったので、むしろあの技量、メンタリティでよくあそこまで行けた、と今は思います」

だからこそ――。

明るい笑顔で、松山が発する言葉には強さがみなぎった。

「フェンシングの技術、メンタル。向上しなければいけないことがわかって、今につながった。むしろ(団体戦で金メダルを獲得した)世界選手権も、すでに過去のことだと捉えているし、僕の軸は変わらない。とにかく目の前のことに集中して、淡々と、とにかくやり続ける。成長していくだけだと思っています」

「グランパレで見てほしいのは、僕が勝つところ」

来夏のオリンピックはパリ。まさにフェンシングの聖地であり、会場となるグランパレはシャンゼリゼ通りに面した、歴史ある建造物。そこで戦い、勝つことは、ただの栄誉や目標ではなく、すべてのフェンサーにとって「とんでもなく特別なこと」と噛みしめる。

「グランパレで見てほしいのは、僕が勝つところ。見て下さる方々にはそれだけ期待してもらえればいいと思っていますが、僕自身は結果だけにとらわれず、最大限を出し切ること。僕のフェンシング人生は来年がゴールではなく、あくまで通過点なので、何より楽しみたいです」

Ⓒ日本フェンシング協会/竹見脩吾

今年1月に同じフランス、パリで開催されたワールドカップには現地のJTB社員も応援に訪れた。それも松山にとっては大きな活力になったが、その際、チームへの差し入れが何より嬉しかったと笑う。

「僕だけでなくチームメイトやコーチ、みんなにお弁当を差し入れしていただいたんです。もうその気遣い、気配りが嬉しかったし、みんなも『JTBってさすがだね』と(笑)。自分で言うのもおこがましいですけど、僕もその一員であることが誇らしかったし、『JTBの者です、頑張って下さい』と言われるだけで、一緒に戦っている仲間意識が持てるんです」

世界中、どこへでも駆けつけてくれる“仲間”がいる。しかもいいときばかりでなく、苦しいときも「頑張れ」と背を押し、支え、励ましてくれる。

ピストに立ち、戦うときは1人だが、決して自分は1人じゃない。多くの支えを受け、松山は渾身の力を出し尽くし、世界の舞台で戦い続ける。

©日本フェンシング協会/Augusto Bizzi/FIE

text by Yuko Tanaka
photographs by Takuya Sugiyama

株式会社JTBは、2024年7月26日~8月11日に開催される「第33回オリンピック競技大会(2024/パリ)」 において、公式ホスピタリティプロバイダーであるOn Location社の日本地区における公式販売代理店として公式ホスピタリティパッケージを取り扱っております。松山選手が出場を目指す種目、フェンシング男子フルーレも取り扱っております。
商品の詳細、またお問合せは下記 HP よりご確認ください。

株式会社 JTB は、公益財団法人日本オリンピック委員会(会長:山下 泰裕)と、 2023年1月1日から 2024年12月31日までの2年間、TEAM JAPAN の公式旅行代理店として契約を締結しております。

唯一無二のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」。創刊から1000号を超えたいまもなお、アスリートやスポーツに携わる人たちの物語を、ダイナミックなビジュアルと独自の切り口で描いている。そんなNumber編集チームがおくるBrand Storyは、その瞬間の物語に焦点を当て、個人のみならずチームや企業の熱い想いをお伝えします。

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