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"心の交流"が平和への一歩。戦禍、ユダヤ難民救済のバトンをつないだ想いは、今そして未来のJTBグループへ

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時は第二次世界大戦下。ユダヤ難民たちの命を救うため、リトアニアで日本への渡航ビザを書き続けた、杉原千畝という外交官がいたことをご存知でしょうか。そして、杉原氏のビザを手にウラジオストクまで辿り着いたユダヤ難民たちを日本の敦賀まで案内したのが、JTBの前身となる「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」の職員たちだったことも。
そんなJTBの歴史を裏付ける資料が福井県敦賀市にある資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」に残されています。

今回は、「敦賀ムゼウム」館長・西川明徳さんに施設内をご案内いただきながら、およそ84年前の出来事から、現在そして未来のJTBグループに引き継がれる想いを紐解いていきます。

「人道の港 敦賀ムゼウム」とは

古くから、日本海側の交通拠点として栄えてきた福井県敦賀港。
国際色豊かであったこの港には、1920年代にロシア革命の動乱によりシベリアで家族を失ったポーランド孤児が、そして1940年代には杉原千畝氏が発給した「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸。「人道の港」としての歴史があります。

「『ムゼウム』とは、ポーランド語で『資料館』という意味です。杉原氏が発給したビザのリストをみると、敦賀にやってきたユダヤ難民たちの中には、ポーランド国籍の方々が多くいらっしゃったと推測できます。さらに1920年代にポーランド孤児を受け入れたという歴史も。ポーランドとの関わりが深いことから、『ムゼウム』という名前になりました」(西川館長)

現在では埋立地となっていますが、ユダヤ難民たちが船から降り立ったのは、まさに「敦賀ムゼウム」の目の前。敦賀港駅や税関旅具検査所などの4棟の建物を当時の位置に復元し、2020年にリニューアルオープンしました。

「敦賀ムゼウム」の西川明徳館長

「敦賀ムゼウム」の前にある、ポーランド孤児、ユダヤ難民が乗った船の上陸地点

難民を二度受け入れた敦賀の街ですが、戦時中の空襲により当時の建物や難民たちとの交流を示す資料の多くが焼失。そんななかでも「人道の港」としての敦賀の歴史を後世に伝えるべく、地元の歴史研究家グループ「日本海地誌調査研究会」が市民の記憶を収集するヒアリング調査に汗を流しました。この調査結果が示すもの、つまりオーラルヒストリーが「敦賀ムゼウム」の展示の基礎および特性となっていったのです。

そのなかには、お腹をすかせたユダヤ難民へリンゴをあげた少年の家族の証言、ユダヤ難民に無料でお風呂を解放した銭湯店主の証言などがあり、敦賀の人たちが難民の方々を温かく受け入れた様子が伝わってきます。

お金を手にするために、とあるユダヤ難民が売った時計。買い取った時計店店主の娘さんが身に着けていたため焼失を免れた

「ユダヤ難民が敦賀に上陸したのは80年以上も前の出来事であり、残念ながら、当時の様子を証言できる方はもういらっしゃいません。ユダヤ難民も既に亡くなられた方が多く、記憶はどんどん埋もれていってしまいます。
こうした状況にはありますが「敦賀ムゼウム」では、オープン以降もご来館いただいている元ユダヤ難民ご本人やご家族の方々に積極的にお話を伺ったり、新たな資料を提供いただいたりして、常に展示内容の拡充を図っています」(西川館長)

杉原ビザからジャパン・ツーリスト・ビューローへ引き継がれた“命のバトン”

ユダヤ難民から受け取った顔写真が保管された「大迫アルバム」

「敦賀ムゼウム」に寄贈された資料の一つに、JTBの前身となるジャパン・ツーリスト・ビューローの職員であった大迫辰雄の「大迫アルバム」があります。この「大迫アルバム」は、第二次世界大戦下の混乱した世の中で、ユダヤ難民とジャパン・ツーリスト・ビューロー大迫との交流が確かに存在していたこと、そしてその交流はとても情緒的なやりとりであったことを示す貴重な資料となっています。

杉原千畝氏直筆のビザ (複製)。リストにおける通し番号は2139番までとなっているが、杉原氏がリトアニアを離れる直前まで発行したため、実際には更に多くのビザを発給した可能性があります。

第二次世界大戦下の東ヨーロッパで多くのユダヤ系ポーランド人らが安住の地に移り住むための鍵となったのが、当時リトアニアで外交官を務めた杉原千畝氏が発行する日本を通過するためのビザでした。

杉原ビザを手にしたユダヤ難民たちは、2週間にも及ぶシベリア鉄道での長旅を終え、ウラジオストクへと辿り着きます。しかし、杉原氏が発行したビザは、あくまで第三国に渡るためのトランジットビザ。そのため、日本への入国には「避難先の国までの旅費を持っていること」「日本滞在中の費用を持っていること」という条件があり、手持ち資金が十分でないために入国の条件を満たさないユダヤ難民たちが多くいました。

旧ソ連領のウラジオストクにいても危険にさらされる可能性が高く、かといってリトアニアに帰っても命が危ない――――

そんな八方塞がりのユダヤ難民たちの状況をみて、彼らが日本に無事に入国できるよう努めた のがジャパン・ツーリスト・ビューローだったのです。そして、ウラジオストクから敦賀への航路に職員として最も多く乗船していたのが、当時入社 2年目の大迫辰雄でした。

7人の顔写真の裏には、フランス語、ノルウェー語、ブルガリア語など、さまざまな言語で、大迫氏への感謝の気持ちが綴られている

杉原ビザによる“命のバトン”をつないだとされる人々の展示。右にはジャパン・ツーリスト・ビューロー職員の大迫辰雄氏の業績が展示されている

ジャパン・ツーリスト・ ビューローの職員とユダヤ難民の交流が残された「大迫アルバム」

大迫を含むジャパン・ツーリスト・ビューローの職員が担ったのは、無事にユダヤ難民たちを敦賀まで送り届けること、そして彼らが入国するための資金となる「アメリカのユダヤ人協会」からの援助金を、難民リストと照らし合わせながら一人ひとりに手渡しをすることでした。

「杉原ビザが発給されたのは、1940年の7月から8月。そのあと順次日本へ向かったのですが、冬場に船旅をした難民も少なくなかったようです。冬の日本海は荒波の日が多いため、船はかなり揺れたはず。そこで名前を確認し、資金を手渡し、無事に送り届けるというのは、大変な業務であったことは想像に容易いでしょう」(西川館長)

ユダヤ難民たちは出自も話す言語もバラバラです。そんななか、語学が堪能であった大迫は、彼らの名前を聞き取り、船上で本人を見つけ資金を渡していきました。

「大迫アルバム」の右ページには、船上でユダヤ難民とともに笑顔で映る大迫の写真が残されている

「大迫さんは『ただ任務を全うしていただけである』と当時のことを振り返っています。しかし、ナチスドイツやソ連が猛威を振るうなか、必死の覚悟でヨーロッパを脱出してきた彼らにとって、当たり前に接してもらえることがどれだけ喜ばしいことだったか。『私を思い出してください。素敵な日本人へ。』と、大迫さんに宛てたメッセージも残されています。写真の裏に感謝のメッセージを添えて手渡したということは、それだけ大迫さんの船上での振る舞いがユダヤ難民にとって特別なものであり、そこには確かな“心の交流”があったのです」(西川館長)

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実は「大迫アルバム」をめぐる物語には続きがあります。大迫が日本交通公社から国際観光振興会(※)へ出向していた際、部下として働いていた北出明さんの働きにより、2014年春、73年の時を経て、アルバムに映っている女性の身元が判明したのです。名前はソニア・リードさん。

残念ながらご本人はすでに亡くなられていましたが、2017年にソニア・リードさんの娘デボラさんとシェリーさんが、東京のJTB本社に足を運んでくださいました。さらに、来日する数日前にソニア・リードさんの遺品を探していたところ、大迫の名刺が見つかったというのです。

この名刺が、JTBグループ社員の励みになってくれたら――。そんな想いを胸に長い時を経てJTBへと届けられました。

※ 国際観光振興会:日本政府観光局、現在の国際観光振興機構、JNTO

下段、左から2番目の女性がソニア・リードさん

JTBに届けられた大迫の名刺

現在のJTBグループ社員に引き継がれた「信頼」と確かな「現場力」

大迫をはじめとするジャパン・ツーリスト・ビューローの思想や行動は、今のJTBグループにどのように受け継がれているのか、そしてこれからどう受け継いでいくべきなのか、JTBのブランド担当部長・荒井寛子はこう語ります。

JTBブランド担当部長 ・荒井寛子

「JTBグループ社員が大切にする価値観『ONE JTB Values』には、信頼を創る・挑戦し続ける・笑顔をつなぐ、の3つがあります。大迫さんをはじめとするジャパン・ツーリスト・ビューローの職員たちの行動は、まさに1つ目の『信頼を創る』を体現したものです。
常に誠実に、お客さま一人ひとりの心に寄り添った行動を心がけ、それによって信頼を築いていく。自身も大変な状況であるなか、大迫さんは目の前のお客様に真摯に対応し、安心してもらうために全力を尽くしたのだと思います。
お客様のために全力を尽くし、その結果として、喜んでいただいたり、感動につながったりすることは、私たちが働く上での喜びでもあるんですね。 こうして何年もの間、ユダヤ難民の方々の写真を大切に保管していたということは、大迫さんにとっても大切な記憶だったからではないでしょうか」(JTB荒井)

この姿勢は、JTBグループ社員が持つ“現場力”へも受け継がれています。

敦賀に到着したユダヤ難民たちは、同じ境遇で逃げてきているとはいえ、話す言語やライフスタイル、そして目指す最終目的地もそれぞれ異なっていました。そんななか、ジャパン・ツーリスト・ビューローは何百人ものユダヤ難民たちがスムーズに移動できるよう、バス輸送を準備し、時には臨時列車も手配したとされています。
「お客さまの置かれている状況や想いをくみ取りながら、チームや組織の力を総動員し、最善のコーディネートをする。それが私たちの強みであり、ジャパン・ツーリスト・ビューローの時代から大切にされてきたことです」(JTB荒井)

「ふるさと敦賀の回想」より、ユダヤ難民を運んだ当時の天草丸。通常は200名の収容数に対して、ユダヤ人輸送では400名ほどが乗船していたという

“心の交流”が平和への第一歩と信じて

当時の日本はドイツと同盟国関係であったにも関わらず、ジャパン・ツーリスト・ビューローは「ユダヤ難民の避難をお手伝いする」という人道的な見地を第一に考え、当時アメリカのウォルター・プラウンド社からの斡旋依頼に協力するという決断を下しました。そのDNAは現在のJTBグループの経営理念「地球を舞台に、人々の交流を創造し、平和で心豊かな社会の実現に貢献する。」に受け継がれています。

杉原ビザのリスト。両親や祖父母の名前を探しに訪れるご家族も多く来館している

「大迫さんをはじめとする職員たちの働きもさることながら、あの戦場下で『ユダヤ難民の避難をお手伝いする』という会社の選択は、JTBグループの存在意義を示すものであり、これからも受け継がれていくべき重要な意思決定です。大迫さんが行ったような国や文化を超えた“心の交流”が、互いの深い理解につながり、そしてそれが平和への第一歩となる。これからもさまざまな“人と人との交流”を生み出していく企業でありたいです」(JTB荒井)

JTBグループでは、新入社員研修で大迫とユダヤ難民たちのストーリーを伝え、「なぜ彼らがそのような行動をしたのか」「この出来事にはどのような意味があったのか」を考える機会を設けています。そんなJTBの姿勢を受けて、西川館長は「JTBグループの社員にこの歴史が伝わっていくことには、大きな意義がある」と話します。

「杉原さんがビザを出し、ジャパン・ツーリスト・ビューローがユダヤ難民輸送を手伝うことを決断、大迫さんがその添乗員を務め、ユダヤ難民を温かく受け入れた敦賀の人々がいた。その後、北出さんが伝承の役割を担っていただいたことをきっかけとして、ソニア・リードさんと敦賀とのご縁が数十年の時を経て現代において甦りました。
平和という大きなテーマに対して、一人では何もできないように思えることもあるでしょう。しかし、一人ひとりの小さな善意が積み重なって、“命のバトン”はつながれていくのです。私たち一人ひとりの行いは微力ではないということを、JTBの皆さまにもご協力いただきながら、次の世代に伝えていけたら幸いです」(西川館長)

「敦賀ムゼウム」館長 西川明徳

2016年4月から現職(敦賀市職員)。2006年当時、港湾担当者として「人道の港敦賀」関連事業に初めて携わる。ポーランド孤児やユダヤ難民関係者との交流を深めるとともに、北陸新幹線敦賀開業後の来館者増及び満足度向上を恒常化すべく、国内外への情報発信や展示内容の更なる拡充に努めている。

JTB ブランド担当部長 荒井寛子

西日本での法人・個人向け海外旅行企画や営業職、広報室長を経て、2022年からグループ本社で現職。JTBグループが掲げる「新」交流創造ビジョンの実現に向け、35年ぶりのリブランディングを推進する。週末は東京散歩を楽しむ関西人。最近訪れた「日本科学未来館」では、サステナブルバイオテクノロジーを体験するプログラムに参加。顕微鏡でミジンコを観察し、「発電菌」なるものの存在を知り驚く。すべての答えは自然界にあるのかも。

文:佐藤伶
写真:赤坂淳
編集:花沢亜衣

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