ホーム>JTB 100年の歩み

ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立

時の鉄道院 木下淑夫が英米人たちに日本の真の実情(姿)を知ってもらうことを目的とした「外客誘致論」を展開。この外客誘致論に木下の直属上司である鉄道院副総裁 平井晴二郎が共鳴、鉄道院の協力を得てジャパン・ツーリスト・ビューローを創立しました。〈会長 平井晴二郎、幹事 生野團六、木下淑夫は理事11人の1人〉ビューロー初期は、よく「ビヤホール」と間違われたというエピソードも残っています。


創立時記念撮影
1912.03(明治45年)

神戸、下関に案内所を開設

ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立後は本部の開設と並行して、神戸・下関に案内所を開設。その後、大正2年7月15日に横浜、8月15日に長崎と、次々に案内所を開設していきました。特に長崎は上海や香港から避暑に来る外国人も多くいたため、長崎案内所からは、海外各方面に披露状2,000通を出しました。


神戸案内所(大正2年1月開設)
1913.01(大正2年)

ジャパン・ツーリスト・ビューロー機関誌「ツーリスト」発行(隔月発行)

機関誌「ツーリスト」は、ビューロー事業の紹介と、急速に拡大していった案内所・支部・本部間での連絡を密にし、事業進展を図ることを目的として誕生しました。近代日本のグラフィック・デザイナー杉浦非水氏作の美しい図案(表紙)で、富士山に桜草を配した五色刷の雑誌でした。初版は、1,000〜1,500部を刷り、広く国内外に配布しました。


機関誌
「ツーリスト」創刊号
1913.06(大正2年)

海外嘱託案内所30ヶ所設置

大正前半には、海外の主要都市に案内所網をはりめぐらせました。大陸等(現在のアジア)にも支部を設置、日本国内外の博覧会会場や避暑地などにも臨時案内所を開設。活動の範囲を拡大しました。

1914.02(大正3年)

東京案内所で、外国人に対し、鉄道院委託乗車券を販売開始

案内所の窓口で、外国人に対し「インフォメーションするだけで切符のお世話をしないのでは、あっ旋の完全を期しがたい」とのことから、切符の販売を開始しました。第一号切符は京都行一等4枚でした。特に外国人観光客に配慮したもので「外人用切符」は大型ペーパー式で和英両文で表示され、通用期間は3ヵ月と長く、しかも、いつでも途中下車ができるという特典付きでした。


東京案内所(東京駅乗車口)
1913.01(大正4年)

ビューロー徽章(社章)制定

機関誌「ツーリスト」の表紙図案を依頼したグラフィック・デザイナー杉浦非水氏作案の「白雪を頂く富士山に帆掛舟のJTB」と表示した徽章(社章)を制定しました。初めての企業宣伝となる「ポスター」も同氏作で制作されました。ポスター図案は、奈良公園の一部に、杉木立、五重塔、鹿を配したものでした。


ビューロー徽章
1916.07(大正5年)

雑誌「旅」創刊

日本旅行文化協会の事業の一つとして旅行雑誌「旅」が創刊されました。日本旅行文化協会はビューローとは別組織でしたが、専務理事にビューロー幹事の猪股忠次が就き、その後「日本旅行協会」と改称し、昭和7年4月に協会の機構の一部を分割してビューローに移管、昭和9年に合併しました。機関誌であった「旅」創刊号は菊判で定価40銭。当時の紀行文作家、田山花袋氏の原稿が掲載されました。


「旅」創刊号(復刻版)
1924.04(大正13年)

「汽車時間表」(後のJTB時刻表)創刊

後のJTB時刻表となる「汽車時間表」を創刊しました。この年は、邦人客への内地各地行き鉄道切符の販売開始や、それに伴う全国のデパートへの案内所開設など、ビューローにとって節目の一年となりました。


汽車時間表
1925.04(大正14年)

観劇券販売開始

プレイガイド社および歌舞伎座と契約し、「観劇券」の販売を開始しました。

1925.12(大正14年)

邦人客に内地各地行鉄道切符を販売開始

第一次世界大戦勃発により外国人観光客数が伸び悩み、大戦後のインフレーションは会費収入に依存するビューローの経営を苦境に追い込みました。自主財源確保の一環として一般邦人用乗車券(「クーポン式遊覧券」など)の販売を開始しました。背景には、日本人の旅行熱の急激な高まりがありました。この年開設した東京日本橋三越本店内をはじめ、全国のデパートに案内所を開設したことで、ビューローの存在が皆様に親しんでいただけるようになっていきました。


当時のデパート内案内所
1925.12(大正14年)

JTB旅行小切手販売開始

当時、旅行中に現金を持ち歩くのは大きな心配事のひとつでした。特に海外では、通貨の違いや為替の変動が加わり、その手間と不安が旅行の楽しみを半減させていました。そこでビューローは、円貨による日本最初の旅行小切手を発行。第百銀行との契約で、発売当初は20円、50円、100円の3種類で、その後、10円、20円、100円の3種類となりました。


JTB旅行小切手
1927.01(昭和2年)

社団法人ジャパン・ツーリスト・ビューローとなる

事業の拡大に対応して社団法人化し「社団法人ジャパン・ツーリスト・ビューロー」となりました。この改組を機会に、国内外の旅客者向け旅行サービス機関として、その一歩を踏み出しました。

1927.07(昭和2年)

鉄道省乗車券の販売・配達を開始(東京、大阪)

乗車券の配達にはメッセンジャーボーイという自転車配達人があたりました。配達する切符の種類は、乗車券、寝台券、急行券、遊覧券、回数券、団体券でした。スマートな制服を身に付けて軽快に自転車で駆けていく光景は「ビューローの動く看板」といわれ、「切符は電話でビューローへ」のキャッチフレーズとともにお客様から好評をいただきました。


メッセンジャーボーイ
1932.06(昭和7年)

社団法人ジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本旅行協会)と改称

邦人部門を強化するため、国内旅行の利用者団体である既存の「日本旅行協会」の事業を吸収。名称はジャパン・ツーリスト・ビューローと日本旅行協会の和英両文の併用でした。戦前におけるビューロー史上、特筆すべき社業拡大の時でした。

1934.09(昭和9年)

クーポン(クーポン式遊覧券)発売10周年

大正14年に「クーポン式遊覧券」として誕生してから10年。乗車券、乗船券、自動車券、旅館券までを一冊にセットし、出発駅から到着駅まで新たに切符を買う面倒も無く旅行できるという、かつて無かった便利な通し切符とあって、発売以来人気を博した商品でした。このクーポンの発売から10周年を記念して懸賞付きで標語を募集し、「旅はクーポン」が当選しました。


クーポン旅館加盟票
1935.08(昭和10年)

社寺券を販売開始

全国の著名な神社仏閣等の参拝者に便利な「社寺券」の販売を開始しました。拝観、宿泊、食事、奉納の4種に分かれていて、ビューロー案内所で割引販売をしていました。

1936.04(昭和11年)

ユダヤ人の避難に尽力

昭和14年9月、第二次世界大戦勃発後、ナチス(ドイツ軍)の弾圧を逃れ、多数のユダヤ人が旧ソ連領に避難しました。この時、在米ユダヤ人協会より救済の手が伸び、アメリカ政府の許可のもとにウオルター・プラウンド社を通じて、ビューローにあっ旋協力の依頼が入りました。欧州からシベリア鉄道でウラジオストックまで来たユダヤ人は、その後、敦賀経由で日本に入り、横浜や神戸からサンフランシスコに向かいました。ビューローは、ウラジオストック到着後のあっ旋を行いました。敦賀とウラジオストック間に10ヶ月にわたり、毎週一往復を運行し、約4,000人のユダヤ人の避難に尽力しました。


輸送で利用したはるぴん丸とあっ旋ルート
※財団法人日本交通公社
「観光文化(別冊)」より抜粋
1940.09(昭和15年)〜1941.05(昭和16年)

2度の改称、1度の改組

昭和16年、社名を社団法人東亜旅行社に改称。同時に、JTB旅行小切手も東亜旅行社小切手に改称しました。この年の12月、日本海軍が真珠湾を攻撃、太平洋戦争が勃発しました。日中戦争、太平洋戦争により、外国人観光客は激減しましたが、東亜旅行社は、国の要請により集団輸送に限定従事しました。また、中国大陸や南方諸国との親善・文化交流のために「日本の国情を、旅行を通じて、広く南方諸国に宣伝する」という新たな任務が加わったことで、会費制にによる運営をやめ、国策に沿った活動ができるよう財団に改組(財団法人東亜旅行社)しました。その翌年、戦時下に観光事業はふさわしくないとの理由から国際観光局が廃止され、財団法人国際観光協会の資産および事務を継承吸収し、再び社名を「財団法人東亜交通公社」と改めることになりました。


東亜旅行社長崎案内所(1942年頃)
1941.08(昭和16年)〜1943.12(昭和18年)

社名を財団法人日本交通公社(JAPAN TRAVEL BUREAU)と改称

昭和20年8月15日、日本のポツダム宣言受諾により、長い戦争が終わりました。日本国外全ての事務所を失った東亜交通公社は「財団法人日本交通公社(JAPAN TRAVEL BUREAU)」と改称し、新たなスタートを切りました。社名の改称にともない寄付行為の改正を行い、事業の目的を「国情文化の宣揚を図る」から、「国情文化の紹介、外客誘致を為す」と明確にしました。この背景には、観光資源が当時の日本において唯一の資本であり、平和を迎えた日本の目指すべき国際親善の方策としても重要だったことが挙げられます。


当時の社章
1945.09(昭和20年)

「交通文化博物館(後の交通博物館)」の開館

昭和20年11月「鉄道博物館」の運営を運輸省から委託され経営を開始。翌年1月、名称を「交通文化博物館」と改め開館しました。昭和22年の入場者は約20万人。内訳は中学生が6割、小学生3割、一般1割の比率で特に子どもたちに支持されました。来場者は年々増加し、昭和23年9月には「交通博物館」と改称しました。※1971年、財団法人交通文化振興財団に運営移管しました。


交通博物館(当時)
1946.01(昭和21年)

本社新社屋に移転

戦災により、都内の建物の被害が甚だしく、借り受けられる建物が見当たらない中、事業の内容から都心を離れることが出来なかったため、本社の設置は困難を極めました。その後、三菱地所の好意により丸ノ内1-1に土地を借り受け、新社屋を建築することになりました。当時はインフレーションが進み、新社屋の木造2階建ての建築費は、戦前のコンクリート8階建てのビルとほぼ同額であったとのことです。


丸ノ内 旧本社社屋
1946.10(昭和21年)

IATA旅客代理店として認可される

昭和22年7月、占領軍の許可を得て、ノースウエスト航空がニューヨーク・アンカレッジ・東京・マニラ航路を開設したのをきっかけに、米国民間航空の日本乗り入れが戦後の海外旅行業務の端緒を開き、昭和23年11月IATAの代理店として承認を受け、各米国民間航空会社と代理店契約を締結しました。

1948.11(昭和23年)

旅行あつ旋業法施行(日本交通公社が登録第1号)

長い占領行政から解放され、その開放感と特需景気により、旅行ブームが起こりました。このブームにより、街には旅行あっ旋の団体が多数出没、中には悪質業者も現れ被害者も続出した事から、国は「旅行あつ旋業法」を制定します。日本交通公社が、その第1号に登録されました。

1952.07(昭和27年)

「旅の絵ごよみ」第1号誕生

カレンダー「旅の絵ごよみ」第1号が誕生。大反響を呼び、カレンダー展にも入賞しました。「旅の絵ごよみ」は、その後、現在まで毎年発行されており、365日の各地の祭事情報を盛り込み、多くの方に愛用いただいております。2012年版は、東北地方の観光復興を祈念し、「これからの100年も語り継ぎたい東北ストーリー」をテーマとして、各月で、東北各地の美しい風景と、その背景にあるストーリーを紹介しています。


旅の絵ごよみ
(1955年版)
1952.12(昭和21年)

「周遊券」を販売開始

この年、戦前の「遊覧券」が周遊券として復活しました。旺盛化する旅行需要と比例し、周遊券はその利便性と経済性が受けて利用者が飛躍的に増えました。特に、昭和31年7月に発売された「北海道均一周遊券」をはじめとする均一周遊券は、目的地域内で自由に何回でも使い周遊できるという、当時としては画期的なものとなり、いっそうお客様にお使いいただけるようになりました。やがて昭和35年以降の所得倍増計画による高度経済成長とともに幕開けを告げる“大衆旅行時代”への、まさしく牽引車となりました。


周遊券
(1955年当時)
1955.02(昭和30年)

新社屋(交通公社ビルヂング)が竣工

仮建築として建造された木造2階建ての本社社屋は、世の中が戦後の混乱から立ち直り、丸ノ内にも新しいビルが立ち並ぶ中、老朽化が進んでいました。また、木造建築は常に火災の不安があったことから、この年に地上9階、地下3階建て新社屋(交通公社ビルヂング、東京都千代田区丸ノ内1-1)を竣工しました。


交通公社ビルヂング
(丸ノ内)
1960.12(昭和35年)

創立50周年

「創立50周年記念感謝サービス」を実施。抽選で特賞「カラーテレビ」など賞品を提供しました。また、創立50周年記念発行として、大型の日本観光写真集「JAPAN」を発行しました。広く世界に日本の姿をPRする目的として、日本の芸術・建築・手工芸・都会/田舎の生活・産業・スポーツ・音楽・レクリエーション・観光旅行・年中行事・味覚・ショッピングなど、多方面にわたる美しい写真に和英両文の解説を添えた総アートB4判・256ページのものでした。業界関係者に配布するとともに、海外に向け販売しました。


和英両文 日本観光写真集
「JAPAN」
1962.03(昭和37年)

「セット旅行」販売開始

「セット旅行」の発売を開始しました。このセット旅行誕生の背景には、“チケット・エージェント”から“トラベル・エージェント”への発展の具体策として、お客様のご要望に合わせた新しい商品企画が求められていたことが挙げられます。このセット旅行は、旅行商品の原型で、その後のパッケージ旅行につながり、“旅行商品全盛時代”へのさきがけとなりました。


セット旅行パンフレット
1962.09(昭和37年)

「株式会社日本交通公社」設立 1963.12.1 営業開始

これまでの日本交通公社の社名が、広く社会に知られていたことから、社名を改めることなく、株式会社日本交通公社設立となりました(財団法人日本交通公社は、公益事業のみを行う団体として再編成し存続)。「旅行者に、真の利便性と満足を提供すること」を目的とし、新会社の営業方針として、お客様への接客サービスの質を改善する「利用しやすく、気持ちの良い店舗」「迅速なサービス」「予約・手配等のスキルアップ」等、9つのサービス改善基本方針を定めました。また、同時に新社章を制定。新社章のデザインは、jtbの3文字を並列に「j」の小点内に日の丸とも見える小円を置き、特に外国人に対し「日本」を連想させる効果もありました。


1963年当時の社章
1963.11(昭和38年)

訪日外国人向けパッケージ旅行「サンライズツアー」運行開始

このサンライズツアーは、訪日外国人向けのパッケージ旅行として誕生しました。日帰り旅行から、16日間に及ぶツアーまで様々なコースが発表されました。一般的なコースである、日光・箱根・奈良はもちろん、鷲羽山(倉敷)をはじめ、工場見学や京都でのスキヤキパーティーなども企画されました。これ以前の外国人観光客は、個人手配でガイドを雇い、自分の旅費の他、ガイドの旅費・食事代まで負担しなくてはならなかったものが、パッケージツアーとして全コースガイド付き、料金も安く、しかも個人単位ではなかなか行くことができない観光もできると、お客様から大好評をいただきました。


サンライズツアー
シンボルマーク(1967年制定)
1964.03(昭和39年)

東京オリンピックにおける、国内入場券販売総代理店となる

第二次世界大戦の敗戦国である日本が、再び国際社会の一員に加わる象徴となった「東京オリンピック」。アジア地域で初めての開催でしたが、日本交通公社は、国内入場券販売総代理店となり、約80万枚の入場券を取り扱いました。この販売のために、延べ2万名余りの社員を動員しました。

1964.10(昭和39年)

「海外セット旅行」を販売開始

初の海外セット旅行となる、「ミニ・ハニー・シリーズ」(「ハワイ・ミニ」「ハニー・ハワイ」「ホンコン・ミニ」)を発売、海外旅行パッケージ商品の草分けとなりました。

1968.04(昭和43年)

JTBの海外主催旅行「ルック」誕生

海外主催旅行の総合名称を「ルック(LOOK)」に決定しました。この新ブランドネームは、「海外旅行のポピュラー化に適した、気軽なイメージを持ち、しかもパンチがあり、カタカナ、英語のどちらでも標記できる」点が評価され決定に至りました。JTB社内外700点もの応募の中から決定しました。同時にシンボルマークも制定しました。※1968年11月に日本通運株式会社と「ルック」について業務提携を実施し、翌年4月から共同企画・仕入・販売を開始しました。その後1989年4月に提携を解消し、現在の「ルックJTB」となりました。


ルックシンボルマーク
1968.06(昭和43年)

「旅館・ホテル電話予約センター」業務開始

東京で「旅館・ホテル電話予約センター」の業務を開始しました。“お茶の間と旅館・ホテルがコンピューターで直結。旅館は電話でお申し込みください”とPRし、全国の主婦の方から好評をいただきました。

1970.01(昭和45年)

「万国博覧会」で1,200万人を斡旋

人類の進歩と調和”をテーマとしたアジアで初めての万国博(日本万国博覧会)が開催され、JTBは入場券発売や旅行者のあっ旋、会場運営に参画し、期間中1,200万人のお客様をご案内しました。

1970.03(昭和45年)

国内主催旅行「エース」販売開始

“交通公社が日本の旅を変えます”と銘打った、初の国内主催旅行「エース」の販売を開始しました。はじめに「春のエース」として110コースをラインナップ。その商品内容のユニークさで、新聞や雑誌を賑わせ、国内旅行の一大ブームがここから始まりました。


エースシンボルマーク
1971.01(昭和46年)

旅行雑誌「るるぶ」登場

行動的な女性向けのカラフルな表紙、誌面、A4変型にて発刊された「るるぶ」の名称は、“見る”“食べる”“遊ぶ”の動詞の末尾を並べた新語(造語)で、“乗る”“知る”“学ぶ”などの旅の多彩なイメージも伝えようとしたものでした。


旅行雑誌「るるぶ」
1973.07(昭和48年)

「Call&Mail」システム(旅の通信販売)を開始

「Call&Mail」システム(旅の通信販売)を東京、名古屋、大阪で開始しました。旅行申し込みを電話予約センターで受け付け、旅行代金を銀行または郵便局よりお振込みいただいた際の控え片を参加証とする新しいシステムで、次第に旅行の通信販売が定着化していきました。

1975.01(昭和50年)

JTBオリジナルイベント「杜の賑い」第1回(能登伝統芸能の夕べ)が開催

全国各地の祭りをはじめ、郷土芸能や民話等を掘り起こし、JTBのオリジナルイベントとして開催する「杜の賑い」。その第1回「能登伝統芸能の夕べ」が、石川県和倉温泉で開催されました。創立70周年記念事業として始まった「杜の賑い」は、この年以降、各地で毎年開催し、2012年1月に開催された沖縄で118回目を迎えました。


現在の「杜の賑い」の様子と
ロゴマーク
1982.05(昭和57年)

「YES JTBカード」発行

お客様のニーズにあった多様な決済手段の提供を目的とした「YES JTBカード」を発行しました。このカードは、「旅のことなら何でも“YES”」という名称の由来通り、国内旅行はもちろん海外でも使える“旅とレジャーの専用カード”を目指しました。その年10月には、会員誌「YES」での通信販売も開始。羽毛布団やウェッジウッド制カフスボタン等、世界の一流品や土産物などを販売しました。


YESJTBカード
1983.08(昭和58年)

分割前払いプラン「たびたび」発売開始

「たびたび」は、お客様に事前に分割払い(口座からの自動引き落とし)、または現金による一時払いをしていただき、満期時に旅行券を受けとるという新しいシステムで好評をいただき、翌年1月、日経流通新聞の最優秀賞を受賞しました。


たびたびロゴマーク
1985.04(昭和60年)

「JTB観光地クリーンアップキャンペーン」を実施

観光地をきれいに元気にしたいという思いから「JTB観光地クリーンアップキャンペーン」を開始しました。清掃による観光地の美化だけでなく「地域社会とのふれあい」を目的としたものでした。2012年の創立100周年を期に「地域を元気に、人を笑顔に」という思いを込めて「地球いきいきプロジェクト」と改称しました。


現在の「観光地クリーンアップキャンペーン」の様子
1985.11(昭和60年)

デパート共通商品券「ナイスショップ」販売開始

「ナイスショップ」は、全国の有力デパート121店舗で利用できる商品券で、販売開始当時は額面500円券のみの発行でした。当時デパートが発行していた商品券に比べ、加盟店数が圧倒的に多く、好評をいただきました。


当時のナイスショップ
1987.11(昭和62年)

「日本交通公社」から「JTB」へ呼称変更

この年「日本交通公社」から「JTB」へ呼称変更をしました。2012年現在まで継承しているJTBマークのデザイン、コーポレートカラーであるダイナミックレッドは、「若々しく先進的な」JTBの企業イメージを表しています。「かわります。みなさまのJTBでございます。(日本交通公社からJTBへ)」というキャッチコピーで、テレビコマーシャルをはじめ、新聞・雑誌・冠イベント等、新タイライン「For Your Travelife」とともに、大々的なキャンペーンを行いました。


JTBマーク
1988.10(昭和63年)

「ジャパン・インターナショナル(現ジェイアイ)傷害火災保険」設立

米国の大手保険グループであるAIGと提携し、ジャパン・インターナショナル(現ジェイアイ)傷害保険株式会社を設立しました。旅行関連の保険だけでは無く、レジャーサービス分野での保険新商品の開発等、幅広い商品展開を目指しました。

1989.07(平成元年)

通信販売商品「旅物語-JTB通信販売の旅-」が誕生

それまでJTBの店頭販売及び通信販売商品として親しまれてきた「JTBの旅」が、通信販売に特化した商品として生まれ変わり、「旅物語-JTB通信販売の旅-」が誕生しました。名称変更には、広告のロゴとして収まりが良く、インパクトがあり、国内・海外旅行の両方に適用でき、会員誌のタイトルとしても適合するもの、を基準として、新聞広告を利用してお客様にもご意見をいただき決定しました。新聞広告当日は、問合せの電話が殺到し、電話回線がパンク寸前。うれしい悲鳴をあげました。


旅物語ロゴマーク
1991.01(平成3年)

研修宿泊施設・コンピューターセンター「フォレスタ」竣工研

JTBの教育、情報戦略の新時代を築く研修宿泊施設・コンピューターセンター「FORESTA(フォレスタ)」を竣工しました。同館は、地上13階地下2階の東館研修宿泊棟と、地上4階地下2階の西館コンピューター棟からなる30,155.19uの施設で、景気低迷が続く世の中の“縮小志向”の中、人財育成と情報戦略のための将来的な先行投資として建設されました。


竣工当時のフォレスタ外観
1992.11(平成4年)

第1回ホノルルフェスティバル開催

1994年4月、当時の蔵前国技館で「稲穂の精」と命名された御輿2基のハワイ渡御(とぎょ)の祝典が行われました。この御輿の初渡御は、ハワイ日本文化センター落成式典で披露され大好評をいただきました。これがきっかけとなり、1995年3月、日本全国70団体・3,662名のご参加による「第1回ホノルルフェスティバル」が開催されました。ハイライトはカラカウア大通りを4時間も交通規制して行った、15基の御輿の連合渡御。登別の「鬼みこし」や「浅草仲見世御輿」をはじめ、石川県の「豊年野菜みこし」や「ハワイフルーツ御輿」などで「ワッショイ」の掛け声のもと、現地ハワイの方との交流を深めました。


最近のホノルルフェスティバルの様子
写真提供:ホノルルフェスティバル
1995.03(平成7年)

ハワイの斡旋に「‘OLI‘OLI」システム導入

‘OLI‘OLI(オリオリ)は、ハワイ語で「楽しく、愉快に」という意味です。その言葉通り、初めてハワイを旅行された方からリピーターの方まで、まるごとハワイを楽しんでもらう事をコンセプトに開発された、ルックJTBの新しいシステムでした。今ではおなじみとなったルックJTB専用の‘OLI‘OLIトロリーをはじめ、ハワイの名所を巡る‘OLI‘OLI スニーカー、貸出し無料の携帯電話‘OLI‘OLIフォン等のサービスでハワイの滞在をサポートしました。


‘OLI‘OLIトロリー
1995.04(平成7年)

マルチメディアステーション導入、旅行商品販売開始

新世代の旅行販売ツールとして「マルチメディアステーション」が、都内のサンクス100店舗に導入され話題となりました。この「マルチメディアステーション」は、JTBとサンクスアンドアソシエイツ(現在のサークルKサンクス)、日本IBMの提携により誕生。遊園地のチケットや航空券の発券、国内や海外のツアー予約が可能で、クレジットカードがあれば、その場で発券できる事が当時は画期的で、“旅の自動販売システム”として注目されました。

1996.02(平成8年)

インターネットによる旅行販売開始

インターネット上で旅の予約から決済までを一括してして行うシステムとして「JTB INFO CREW(インフォ クルー)」のサービスを開始しました。それまでハガキにより実施していた「JTB宿泊アンケート」もホームページで行えるようにするなど、旅のインターネット利用は、この時一気に加速していくことになりました。

1998.04(平成10年)

インターネットによる旅行販売会社「(株)たびゲーター」設立

ヤフー(株)・ソフトバンクグループとインターネットによる旅行販売会社「(株)たびゲーター」を設立しました。インターネット上に専用サイトを設け、JTBグループ商品だけでなく他社の旅行商品も取り扱い、広くお客様にご利用いただけることになりました。


たびゲーターTOPページ
2000.03(平成12年)

「(株)ジェイティービービジネストラベルソリューションズ」設立(2001年1月にCWT社の出資により現体制)

2000年8月JTB全額出資により、ビジネストラベル専門会社「(株)ジェイティービービジネストラベルソリューションズ」を設立しました。その後、2001年1月にカールソン・ワゴンリー・トラベル社との合弁契約締結により、同社日本法人の事業を統合し、現体制となりました。

2000.08(平成12年)

株式会社ジェイティービー(JTB Corp.)に改称

株式会社ジェイティービー(JTB Corp.)に改称し、本社を天王洲に移転しました。グループ経営理念を「21世紀のツーリズム発展の一翼を担い、内外にわたる人々の交流を通じて、平和で心豊かな社会の実現に貢献する」と定め、新タイライン「For Your Travel & Life〜世界をつなぐ旅と心〜」も制定しました。


天王洲JTBビル外観
2001.01(平成13年)

新グループ経営体制へ移行(分社化)

「マーケット(お客様)に正対した会社群によりJTBグループを再び成長機軸に乗せる」ことを目的に、新たなグループ経営体制に移行しました。「常にお客様の立場に立って、最良のサービスを提供し、お客様の夢を実現する。その結果、JTBグループが、お客様にとって無くてはならないパートナーとして認められること」これを“JTBグループの夢”として新タイライン「Your Global Lifestyle Partner」を制定しました。


JTBグループ社内報
JTBグループ新聞
(2006年4月号)
2006.04(平成18年)

(株)ジェーシービーと事業開発会社「J&J事業創造」設立

(株)ジェーシービーとの共同出資により、両社の経営資源を活かし更なる顧客サービスの向上を図るべく「J&J事業創造(株)」を設立しました。また、同社の子会社としてJCB会員向けの旅行サービスを手がける「(株)JCBトラベル」とJCBおよびJTBのギフト券オペレーション業務を受託する「(株)J&Jギフト」を設立しました。

2006.07(平成18年)

(株)ジェーシービーとの共同ギフト券「ナイスギフト」販売開始

(株)ジェーシービーとの事業提携の一環として、両社が独自に展開してきたギフト券を統合し、JCBに加盟店業務を委託することで、より汎用性が高く、利便性に優れた統合ギフト券「JTBナイスギフト」を発行しました。これにより、利用可能な店舗数は日本最大規模の50万店以上に拡大しました。


ナイスギフト
2007.06(平成19年)

JTB時刻表通巻1000号を発行

1925年(大正14年)に創刊した「汽車時間表」が、その後「JTB時刻表」となり、2009年5月号で通巻1000号を達成。同時に鉄道博物館とのコラボレーションで、JTB時刻表読者を招待した記念イベントを開催しました。
また、この1000号発行を機会に、地域の鉄道の魅力を通じた国内旅行のムーブメントを起こそうと『鉄旅ニッポン』プロジェクトを始動。中でも鉄道好きの女性ファンによる「鉄旅ガールズプロジェクト」はTV番組で紹介されるなど話題になりました。
尚、1000号の1号前の999号は、その号数から漫画家 松本零士氏作の「銀河鉄道999」のオリジナルイラストの表紙で発行し、大変話題となりました。


「JTB時刻表」1000号・999号表紙
2009.04(平成21年)

「るるぶ」世界一の旅行ガイドシリーズに認定

JTBグループの出版事業会社、(株)JTBパブリッシングが発行する「るるぶ」シリーズが「発行点数世界最多の旅行ガイドシリーズ」としてギネス世界記録™に認定されました。1984年8月から2010年11月までの旅行ガイド発行点数3,791点が世界一と認められ、世界各国で旅行ガイドシリーズが発行されている中、日本の「るるぶ」が発行記録で世界一と認められました。(認定日:2010年12月16日)
これまで発行された「るるぶ」全種類を縦につなげると「東京スカイツリー」(634m)の約1.6倍もの長さになるそうです。


通巻4000号を突破した「るるぶ」
2010.12(平成22年)

新グループブランドスローガン「感動のそばに、いつも。」を制定

2012年3月の創立100周年を見据え、JTBグループの更なるブランド価値向上を目指して、ブランドメッセージ体系「The JTB Way」を策定しました。このなかで、新たなブランドスローガンを「感動のそばに、いつも。」と定めました。(英語表記は「Perfect moments, always」)


JTBマークとブランドスローガン
2011.04(平成23年)

中国人向け海外旅行商品「悠逸」を販売開始 JTBグループが外資系旅行会社と初めての認可を受ける

2011年5月、JTBグループの中国における旅行会社、交通公社新紀元国際旅行社有限公司が、外資系旅行会社として初めて、中国国内で中国人に対する海外旅行販売の認可を受けました。2011年9月に販売開始した個人向け旅行商品のブランドネームは「悠逸(ヨウイ)」とし、「ゆっくり過ぎる時間と上質なサービス」をという意味を持ち、「信頼」、「感動」、「満足」をコンセプトに周遊型・フリープラン型などのパッケージ商品や、趣味やテーマにこだわった専門的な旅行商品を販売しています。


「悠逸」パンフレット表紙と
交通公社新紀元国際旅行社オフィス
2011.10(平成23年)

創立100周年

2012年3月12日、JTBグループは創立100周年を迎えました。
私たちJTBグループは、お客様と共に歩んできた100年を大切にし、これからも地球を舞台に「価値ある出会い」を創造し続けます。これからのJTBグループにどうぞご期待ください。


JTB創立100周年イメージデザイン
2012.03(平成24年)