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2016年3月24日(木)

「新しい東北」復興ビジネスコンテスト2015・JTB賞 記念対談

写真左:宝来館・岩崎昭子女将
写真右:株式会社JTB・
常務取締役久保田穣

先般実施された「新しい東北」復興ビジネスコンテスト2015において、宝来館がJTB賞を受賞したことを記念して、平成28年3月24日、株式会社JTB・久保田穣常務取締役と、宝来館・岩崎昭子女将との間で対談が行われました。

どんぐりウミネコ村の取組みについて

岩崎 「どんぐりウミネコ村」は仮想の村で実際に釜石市にある村ではありません。村の範囲は世界遺産に登録された橋野高炉跡のある橋野鉄鋼山から大槌湾流域までで、「どんぐり」はどんぐり産直の名前を借りて、「ウミネコ」は宝来館が根浜海岸の目の前にあることから名づけました。宝来館は昭和38年に私の父と母がはじめました。当時、製鉄所の景気が良く、釜石は観光ではなく、製鉄関係のビジネス客の受け皿の町でした。根浜海岸はリゾート地で休みには大勢の人で賑わっていました。私が宝来館を継いでからは、製鉄所の合理化が図られ、根浜海岸に来る人も減り、どうしたらお客さまが来るのかずっと悩みの種でした。平成7年頃、日本にグリーンツーリズムという概念が入ってきました。そこで宝来館は平成9年に体験民宿を始め、平成10年にはA&Fグリーンツーリズム実行委員会というものを設立します。AはアグリカルチャーでFはフィッシャーです。農業と漁業を体験する地域ですよという取組みの実行委員会の発起人をさせていただきました。その取組みの中でもっと人が観光に来たいと思う名前をつけたかったので「どんぐりウミネコ村」という名前をつけました。悩みは震災前も震災後も実は一緒です。どうしたら東北の観光地としてお客さまが来てくれるのか。地域と一緒に生きる宿としての思いの中で付けたものです。

久保田 産業構造が変わり、来訪者の質も変わる中でグリーンツーリズムというものをはじめようと考えられたのですね。

岩崎 当初グリーンツーリズムという言葉を聞いたときは、田舎の村でも何か出来るのではないかと夢を見せてくれるものだったんですね。ただグリーンツーリズムについて、「漁業体験や農業体験」と捉えてしまっていて、本来の「空間を全体を楽しむ場」を作り出すまでに時間がかかりました。地域の皆さんにグリーンツーリズムとは、体験も食べるものも、そこで海を眺めることも含めた空間なんだと分かってもらうために「どんぐりウミネコ村」と名付けました。

久保田 「村」というのは空間や地域のまとまりという意味でつけたのですか。

岩崎 そうです。実は震災前から根浜海岸にあるゲストハウスやコテージ、健康センターの維持管理・運営などの指定管理者を3年間は宝来館が行い、その後の3年間は村で「愛する会」というものを設立して行っていました。その3年目が震災の年になります。

久保田 震災前に6年もそのような取組を行っているところはなかなかないのではないでしょうか。

岩崎 小さい村だからこそできたと思います。当時の町内会長が会長となって、町内の皆でチームを組んで、役割分担をして運営していました。儲けは日当として分けてそれ以外を地域のために使うということをしていました。村の皆さんの役割分担がしっかりなされ、だいたいの形が出来てきた6年目でした。

久保田 観光を軸に幅広い分野まで活動範囲にしているところはそんなにはないですね。よくまとまりましたね。

岩崎 会長は漁協の理事などもやっていた方でそのような感覚に長けている人でした。宝来館1社でやっていると何か設備投資をしようとしても無理なんです。行政の応援をもらうには村として活動として認めてもらわなければ広がりがないと思ったんです。この取組みをはじめると同時に、若い人たちにビジネスの勉強の場としてこの空間に来てもらえないかと考えました。そこで岩手県立大学さんと一緒になって、岩手県立大学の総合政策部の学生さんがグリーンツーリズムを体験するメニューを開発しました。震災前のこの活動が震災後のすべてのステップとなります。でも私がお金を借りていた銀行からは、旅館の仕事をもっとするように言われました。

久保田 かつては、そうだったのでしょうが、本末転倒ですね。地域が魅力的になってお客様も来てくれるということだと思います。

震災後の宝来館の役割について

岩崎 3月11日から3月26日までの2週間余り、宝来館は約120人の避難所になり、最初の5日間は孤立して自給自足の生活をしました。その後、宝来館が釜石圏内において一番危険な場所にあることが分かり、すぐに解散するように言われました。集落の人は宝来館を拠点にして村を守りたいという思いがありましたが私は宿の危険度をよく分かっていたので避難所は辞めました。当初は宿も辞めるつもりでした。でも、震災後はみんなが戻ってきたい村の旗振り役のようなものができるかもしれないという思いと、復旧工事に来てくれた、ある社長さんから「毎日車の中で従業員が足をまげて寝ているのでかわいそうだ。電気や水が使えなくても足を延ばして寝させてほしい。」と言われ、必要ならば使ってくださいと。だんだんあの津波で残った宝来館に命があるように思えてきて、宝来館を復旧させようと思う気持ちになりました。

久保田 どのくらいの被害状況だったのですか。

岩崎 全半壊でした。2階くらいまで津波がきました。いつかは高台の安全な場所でお客さまをお待ちしたいという気持ちはあります。ただ三陸の復興の途上において、宝来館があそこにあることが一つの役割だと思っています。

久保田 役割があると思い直された原動力はなんだったのでしょうか。

岩崎 人との繋がりです。宝来館はグリーンツーリズムなどの取組みもしていたので、単なる宿ではなく、人と人が交わる情報の場や出会いの場でした。あと、あの海の前の宝来館の前に立つとメラメラと力が湧いてくるんです。どんなことがあってもやり通すという気持ちになります。

久保田 私も実際に泊まらせていただいたのでこの松林と海を見ているとその感覚は理解できます。あの環境にはパワーがあるのでしょうね。

岩崎 ありがとうございます。海があることで様々な悲しみや大変な目にも遭うけれど、三陸で生き続けてきたDNAがあの場所に何度も立たせるのではないのではないでしょうか。

久保田 その場に立つことでミッションや使命のようなものを感じるのでしょうね。

これからの釜石市の復興のあり方について

久保田 世界遺産が決まったり、ラグビーのワールドカップの開催地に選ばれたりと、明るい話題も増えてきた釜石ですが、将来に向けての今の女将さんの活動の中身を少し教えていただけますか。

岩崎 そうですね、この世界遺産を目指すのも、実は震災前から私たちのライフワークではありました。地域づくりの中で、釜石が、人の来る観光地になるためには、自分たちの財産の「鉄」を武器にしたいというのはずっと思っていました。また、ラグビーのワールドカップは、震災直後にラグビー関係者の皆さんが訪ねてきて、彼らはどうにか縁のあった釜石市民の私たちに元気をあげたいと思ったんでしょうね。「ワールドカップ、2019年にあるからね」って話してくれて、「だったら釜石でやってくれ」ってつい口に出てしまって。何か自分たちが生きる目標が、あの当時は必要だったので、ついついすがるものが欲しくて言った言葉だったんですが、それがラグビー、スポーツの素晴らしさで、人と人が繋がって、釜石を選んでくださるという結果になるんですね。震災前からの出会いとか、いろんな思いを出会った皆さんの思いによって釜石が選ばれたということに、本当に感謝します。人の縁で選ばれたと思いますね。

久保田 縁とかタイミングもあったと思いますね。ただ、やはり伺っていると震災前からの積み上げがあったからというのは大きいですね。そういう震災があったにしても、それを乗り越えてここまで来られてきている、人のパワーみたいなものを世界中から来られる方に感じてもらえるようなことが大事かもしれませんね。

岩崎 私たち、JTBさんに期待することがそこなんですよ。私たち、釜石人、三陸人、そこに住んで生き続ける力はあります。ただ、それを魅力として、自分たちでどうコーディネートしていいかが分からないんですよ。

久保田 京都や東京でのおもてなしとは全然違いますもんね。その釜石的なというか、津波前後を含めた、人のパワーと言うんでしょうか。今おっしゃった言葉を借りて言えば「生きる力」のようなものを感じてもらえる仕組みが何か欲しいなと。

岩崎 宝来館をJTBさんが選んでくれた理由はたぶん、形にならないものに何かがあるという風に思ってくださったというのは何となくわかるんです。見えない形のものに何か形を作ってあげて、価値あるものとして見せてあげようと、たぶんJTBさんはそこに懸けてくださったところがあるというのは私もわかるんです。ただそれをどう見せていいかが難しいんです。

久保田 まだ時間もありますし。地域の方々と我々と、いろんなコミュニケーションを取りながら、何かを作っていくのが我々の仕事じゃないかなと思いますね。

岩崎 北海道に新幹線が通って、世界中が隣近所のように近い時代になっています。それを今、観光で何かしなければ、被災地は工事が終わった途端に誰もいなくなってしまう。震災5年目になって見えてきたところもあります。だから、10年後、20年後の地域づくりの展望を描かなければいけないんですけど、どうしていいかもわからなくて、できるのは結局日々の積み重ねしかないということに戻ってしまうんです。でもそれを、外目から大きな流れで仕掛けてくださるみなさまのアイデアに私たちは期待するというか、すがるしかないのかもしれません。

久保田 そういう中では、我々がどこまでお役にたてるかというのは、やってみないとわからないですけど、松林のところで指揮者の佐渡裕さんが来て、音楽を通じて交流をして、また、彼が世界中を飛び回っている時にそういうものを発信していく、そういうことが毎年繰り返されている。そういう、人の輪というものが大事になってくるかもしれませんね。

岩崎 そういう方々って、お手紙で常にやり取りしているというのではなくて、1年に1回、必ず3.11は、自分の原点はここだよって佐渡さんも思ってくださって、この間も来てくださって。

久保田 そこに至るまでの話をちょっと、聞かせてください。何で佐渡さんが来て、ああいう活動を、必ずやってらっしゃるのか。

岩崎 3.11も個人的に来てくださって。兵庫から始まった被災の物語で、阪神大震災があった時に、音楽で自分のできることは何かと彼は思って、兵庫県県立芸術文化センターを建てようという10年計画を立てて、10年後にそれが建つんですね。音楽でまちづくりをするという動きをしながら、スーパーキッズという音楽をやる子供たちも育てていて。音楽ができることは何なのかというのを、阪神大震災の時にずっと彼は考えながら、音楽をやりながら、音楽の貢献というものをやり続けてきて、そして今回、東日本大震災で私たちが被災した時に、その阪神の流れで、自分がやるべきことがあると、彼は思ったんですよね。佐渡さんが東日本で何かできないかと思ってらっしゃることを釜石で防災教育を始めた群馬大学の片田先生が聞かれて、片田先生から私にお電話が来て、「女将さん、佐渡さんに手紙を書いて」ということだったんです。

久保田 それまでに面識があったわけでもないし、手紙一本がきっかけですか。

岩崎 そうですね。私の手紙がですね、人と人との思いと、偶然みたいなことが重なって、すぐ佐渡さんからお電話が来たんです。「ぜひそこに行きたいと思います、受け入れてくれますか」と。佐渡さんが、生きている人間ではなくて、まだそこに行方不明者がいる海に向かって、鎮魂のコンサートをしたいと最初おっしゃったんですよ。それで私は、それであるならばぜひ来ていただきたいと思ったんです。生きている私たちを慰めてもらうためには、まだ私たちは音楽を受け入れるという気持ちにはなっていなかった。その手紙を書く状況の中では。ただ私が書いたのは、佐渡さんが海に向かって、まだ、私たちの仲間はいっぱい海にいたんですよ。そのみんなに届くのであれば、そういう思いで書かせていただいたんです。

久保田 いろんな発信力のある人たちとのコラボをしながら、気持ちが伝わっていくといいですよね。

岩崎 佐渡さんは、これが自分のライフワークとしてやり続けるからとおっしゃっていただいて、佐渡さんがいらっしゃることで、実は、地元の子供たちのバイオリン教室もはじまってますし、中学校・高校が吹奏楽のメッカになってきているんです。震災に遭うことで、スポーツも音楽も芸術も世界の一流の皆さんに直に会ったことがやっぱり子供たちにとっては刺激になったと思いますね。

久保田 無形の財産というか、何ていうんですかね。もちろん堤防つくるのも大事ですけれど。それ以上の何か人づくりと言いますか、震災がきっかけかも知れませんが、そういう人たちがこの地域に入って。

岩崎 ハードも、人づくりも一緒になっていって、初めてそこが過疎にならないで、堤防だけで残ったのはコンクリートだけだとならないで、中身があったらば人は来つづけてくれるかもしれないですね。JTBさんが、本業は人の交流で、人を運ぶ、連れてきてくださるお仕事ですけれど、今回、被災地においては、人を運んで行きたい村づくりを考えてのこのJTB賞だと思っております。申し訳ないですけれど、世界中のノウハウを見て、東北の私たちに可能な魅力をですね、何十年かかるかもしれないけれど。

久保田 そうやって来られた方も何かここで得るものがあるんだと思うんですよ。野球にしても音楽にしても芸術にしても。単に支援するという一方的な通行ではなくて。もちろん支援したいという気持ちがありますけれど、現地に行かないと学べるもの、自分のものになるものを、きっと皆さんから感じておられるから、ずっとやりつづけるとおっしゃっているんだと思うんですね。それが一体何なのか。何が原因でそれが発生しているのかみたいなことも、我々はもっと深掘りをしながら、少しずつでも広げていける、そういう旅の力になれればいいと思うのですが。

岩崎 佐渡さんは3.11の時には必ずここに来て、原点に戻りたいと、この間おっしゃっていました。そういう意味合いで今の私たちの東北を見ていてくださって、音楽の意味を、振り向くというか、原点の場所として考えてくださっているような、そんな気がします。

現在抱えている問題

久保田 震災5年目の今、抱えている課題などはありますか。

岩崎 実際に岩手県の被災地は20歳から25歳くらいの若い世代の人口は増えているんですよね。今の若い人たちは自分を活かす、自分の何か役に立つということに意識が高くって、地域活動というニーズがあると思うんですね。で、釜石市はそのニーズを「釜援隊」という形で若い人たちが地域のことの課題解決を行う組織を作っていますが、そういう人たちも任期がきれると終わりじゃないですか。釜石が次に期待しているのはそういう人たちが起業してそこに居続けられる人たちが出来ることですけども全員は出来ないですもんね。でも、大学や専門学校なり、釜石市で若い人たちの層が増えてくるということはすごくありがたいことです。根浜海岸周辺のまちづくりについて、私たちの村では今、任意団体のようなものを作って、受け皿の拠点づくりをしようということを考えています。また、今まで、佐渡さんや色々なアーティストの方がいらっしゃっているのですが、どこでだれが何をやっているのか、あまり広く知られていなかったので、12か月のうちに「釜石でこんなことやっていますよ」という情報発信をしようと思っています。震災で知り合った人たちが常に来て、何かを一緒に作り出している村づくりをはじめようと思っています。村の中にランニングコースやサイクリングコースを作ったり、アーティストレジデンスのようなものも1つ1つ完成していければいいなと思っています。アーティストの皆さんが釜石で作るものがあったり、村に音楽がどこかから朝晩聞こえてきたり、スポーツ選手が朝夕しながらランニングをしている、そしてボランティアさん色々世界中からきて環境整備のボランティアしてくれているような村になればいいと思っています。

久保田 「新しい東北」という意味では行政だけに頼らずに、今までの人脈を活かせる場を作って新しい地域づくりをしていこうと思われているのですね。そういう自分たちだけでやっていこうっていう思いは、震災前の6年間に培われたこともあるんでしょうけど、より震災後に強まったんですか。

岩崎 そうですね。せっかくこれだけのチャンスをくださった皆さんがいるんだから、まずそこに住んでいる自分たちが行動を起こさなければいけないと思っています。そうすることで行政も応援しようという動きになってくれればいいなと思っています。

久保田 観光資源とは、「気候」だとか「自然」だとか「食べ物」、「文化財」だとかいうんですが、今お話を伺っていると、「人」かもしれませんね。被災地の次に向かって切り開いていくようなエネルギーみたいなものをもっていらっしゃる「人たち」、それはひょっとしたら観光資源に数えてもいいのではないかと。我々も企業の立場から言いますとね、我々はその中で旅行を基軸にしながらビジネスをしていくんですけれども、そこで我々も給料が出て、利益が出て株主還元もするのだけれども、本業の企業活動を行う中で、ビジネスと社会貢献が両立するような企業活動が重要だと思いますし、昨今多くの企業もそういう考え方をとりいれてきているんですね。まさにその典型のところを我々も被災地から被災地以外のところを含めてですけれどもやっていかなければいけない。今お話を伺っていて一段と思いを新たにしました。

岩崎 私たちは、JTBさんに期待します。今までやってきたのがただ空中分解的に終わってしまうんじゃなくて、そこに価値があるんだよって言ってくれる方がいて、僅かでもツアーに選ぶ方たちが増えていくとまた変わってくるかもしれないですね。

久保田 そうですね。来た人もかわっていくかもしれないしね、そこでなにかの学びがあってね。相互交流ですよね、まさに。そういうのが我々JTBの考えている交流文化事業の肝なんです。

岩崎 震災を受けて私たちは、いっぱい悲しい思いをしましたが、人に助けられて素直に感謝を表せるようになりました。今ではできないけど時間をかけて自分たちは恩返しをするというふうに地元の人たちは素直に育ってるんですよ。

久保田 人との繋がりの大切さを本当に実感されているのが、被災地の方なんでしょうね。今後の課題としてはやっぱりその繋がりの継続だったりとか、とはいえそういう人たちに対して今度は何を提供することができるかとか。そういうそのお互いの関係性みたいなものをどう作っていくか。これからだと思いますけど、民間の活動と行政の活動の連携などプラットフォームのようなものがこれから必要になってくるのかなあという感じですかね。

岩崎 そう思います。今始まっているPITとかあるんですけれど、そこがプラットフォーム的な役割もしていると思います。でもそのポイントポイントに、地域の小さいプラットフォームのようなものがあって、それと連携する大きなプラットフォームを今作っておかないといけないと思います。

JTBへの期待

岩崎 JTBさんにはこれまでもいろんな協力をしてもらっているので、JTBさんがお客さまを連れてきやすい魅力を私たちが早く見える形として出さないといけないだろうなと。ツアーとして人が集まらなくても継続的に来ていただくことで、私たちも「おもてなし」を磨き、勉強しますので、まずは諦めずに人を送ってくださるということが今言えることです。

久保田 これからはスポーツツーリズムもありますし、釜石の歴史の中で地域のコミュニティのあり方を考えるツーリズムというのもあるのかもしれませんし、自然環境を生かすツーリズムもあると思います。我々も一緒に釜石市の魅力が何か、どうやったら人が来るのかを一緒になって考えていけたらなあと思います。

岩崎 ぜひお願いします。

久保田 まず継続が大事ですよね、それからやはり5年の節目なのでその次にまた来たくなるような仕組みづくりを地域の方々と一緒に作っていかなければいけないなというのはありますよね。キーワードはやっぱり「人」を観光資源にしたような、被災地だからできるようなことがあるんじゃないかと思うんですね。そういうようなそういうものを絞り出しながら、皆さんがお作りになろうと努力されている仕組みとも連携しながら、人を送り込んでいくという次の段階に行けるように我々も色々な取り組みをしていきたいなと思っています。それが当社の信用、信頼、安心というような広い意味で言えば会社のブランドとなり、それが結果的に地域の皆さんとの絆も深めることになるし、そしてまたお客さまからも行って良かったというようなになれば良いなと。企業的な観点からいってもそういうことが必要だと思っていますので、これからも一緒に作りあげていきたいので、ぜひよろしくお願いします。

岩崎 ありがとうございます。そのような思いをいただいてすごく感謝しますし、そうやって育てていきたいです。

久保田 やはりビジネスというのはやはり両方にとってプラスがある。来るお客さまも地域の行政も、みんなが程度の差はあってもプラスになるようになっていかないと続かないですよね。続けられるような仕組みづくりの知恵を出していきます。

岩崎 よろしくお願いします。どのような村に育て上げてここに来れば何か掴める勉強の場所になりたいです。諦めずに頑張ります。

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