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JTB職員 大迫辰雄の回想録 ユダヤ人輸送の思い出

第一話 天草丸のこと

天草丸の写真

前にも述べた通り、この輸送の第一船はハルピン丸であったが同船は大きすぎてウラジオストックの岸壁に着壁困難ということで、代船として天草丸が就航することになったといういきさつがあったようである。そこで私は天草丸に乗ることになったのであるが、仄聞した処によるとこの船は船齢二十八年とかで、相当な代物、二〇〇〇トンというから、大きい客船とは云えない。船の幹部としては坊主頭のまじめ一方の船長と、背の高い機関長と、局長とよばれたでっぷりとした通信士と、ロシア語の堪能な事務長(パーサー)の四人であった。そのほかに、私の身辺を色々と世話をしてくれた、ちょっと目先の利く、要領の良いボーイ長がいた。

幹部四人と私は毎日食堂で三食を共にすることになっていた。船客は一等客のみが我々と一緒だった。一等船室は数える程しか無かったので、毎航とも数える程しか乗船していなかったように覚えている。
船室の多くは三等で、窓のない大部屋が廊下をへだてて両側に並んでいた。雑居寝方式で三等の収容数は、常識的に二〇〇~二五〇名というところだったろう。実際には復路のユダヤ人輸送に当っては、当時のソ連邦の勝手な扱いにより四〇〇人程が乗船してくることが多かったようである。私は一等船室を与えられたが、寝台が上下二個あり、丸窓がひとつあって、海を見ることは出来たが、殺風景な部屋であったと思う。
又、食事は日本食とか、洋食とかが交互に出たと思うが、どんなコックがどんな料理を出したのかは覚えていない。他に何の娯楽設備もなかった。(但し、将棋盤とか碁盤はあったようで、船長とか機関長とかが時折、遊んでいたのを覚えている)従って往路はする仕事もなく、暇を持て余すことが多かったように記憶している。

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