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JTB職員 大迫辰雄の回想録 ユダヤ人輸送の思い出

01「ユダヤ人渡米旅行の斡旋」

昭和十四年九月、ドイツ軍がポーランドに電撃作戦を敢行したため、東欧諸国、とくにポーランド在住のユダヤ人は西欧への脱出路を断たれた。そこで唯一の逃げ路であるソ連領に難民がなだれ込んだ。
その一部はシベリア経由日本及び北中支方面にも流れて来た。

在米ユダヤ協会では、悲惨な同胞を一人でも多く助け出したいと、ユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件として、アメリカ政府の許可の下に、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ビューローに斡旋の協力を依頼してきた。こうした要請にこたえたのは、時の外務大臣、松岡洋右の外交感覚であったと云われる。欧州からシベリア鉄道で、ウラジオストックまで来て、日本海を敦賀経由で日本に入り、東京、横浜から、アメリカへ送り出すまでの斡旋をしてほしいと要請された。費用は一人当たり神戸乗船者で四〇ドル、横浜乗船者は五〇ドルという契約であった。ビューローでは、敦賀・ウラジオストック間の航路に添乗員を派遣して、ユダヤ人輸送の斡旋に当った。昭和十五年九月十日、敦賀港出帆のハルピン丸を第一船として輸送を開始、独ソ戦のはじまる昭和十六年六月まで、十ヶ月にわたって、毎週一往復を運航、この間、一万五〇〇〇人に及ぶユダヤ人の輸送を実施した。この期間中、ビューロー本部では上陸地敦賀に駐在員を配置、また満州支部では満洲里案内所を強化して輸送に協力した。

大迫辰雄

当時毎週一回の割で二十数回にわたって日本海を往復、添乗斡旋に当った「大迫辰雄」は、各航海とも海が荒れ、船酔いと寒さと下痢に痛めつけられたうえ、異臭に満ちた船内斡旋のつらかったことを想起し、よく耐えられたものであると述懐している。

『七十年史』には以上の通り記されているが、何せ、今では五十年以上も前のことで、私の記憶も薄れてきており、細かいことは忘れてしまっているが、思い出すままに当時のことを偲んで見ることにしたい。
この当時のユダヤ人輸送の件については、大東亜戦争後になって、新聞雑誌等で時折、記事になったことを記憶している。特に昭和十四年から十六年にかけて当時リトアニアの日本副領事をしておられた杉原氏が、外務本省にかまわず、独自に多数のユダヤ人に対し日本通過査証を発行したことに対する在米ユダヤ人の有志が、今は亡き杉原副領事を称える行事を行うに至り、日本側も、同領事の当時の人道的処置を見直すことになったと云われる。昨年だったか、米国映画で「シンドラーのリスト」というのが日本で上映され、大ヒットとなり、私も観に行ったが杉原副領事は日本のシンドラーと称されるに至った。但し、シンドラー自身は金儲けの為にやったと云うところが杉原氏とはちがう。

さて、その輸送斡旋業務であるが、私は当時入社二年目の若造。勿論乗船勤務など初めてのこと、何故私がこの業務に選ばれたのかは分らないが、若いだけに使命感にあふれるものがあったことは確かであろう。乗船勤務に当っては、待遇はアシスタント・パーサーと云うことで、船員手帳をもらい制服制帽を支給された。初めて着る船員服が何かしら、てれくさかったことを憶えている。

02第一話 天草丸のこと

前にも述べた通り、この輸送の第一船はハルピン丸であったが同船は大きすぎてウラジオストックの岸壁に着壁困難ということで、代船として天草丸が就航することになったといういきさつがあったようである。そこで私は天草丸に乗ることになったのであるが、仄聞した処によるとこの船は船齢二十八年とかで、相当な代物、二〇〇〇トンというから、大きい客船とは云えない。船の幹部としては坊主頭のまじめ一方の船長と、背の高い機関長と、局長とよばれたでっぷりとした通信士と、ロシア語の堪能な事務長(パーサー)の四人であった。そのほかに、私の身辺を色々と世話をしてくれた、ちょっと目先の利く、要領の良いボーイ長がいた。

天草丸の写真
天草丸の写真

幹部四人と私は毎日食堂で三食を共にすることになっていた。船客は一等客のみが我々と一緒だった。一等船室は数える程しか無かったので、毎航とも数える程しか乗船していなかったように覚えている。
船室の多くは三等で、窓のない大部屋が廊下をへだてて両側に並んでいた。雑居寝方式で三等の収容数は、常識的に二〇〇~二五〇名というところだったろう。実際には復路のユダヤ人輸送に当っては、当時のソ連邦の勝手な扱いにより四〇〇人程が乗船してくることが多かったようである。私は一等船室を与えられたが、寝台が上下二個あり、丸窓がひとつあって、海を見ることは出来たが、殺風景な部屋であったと思う。
又、食事は日本食とか、洋食とかが交互に出たと思うが、どんなコックがどんな料理を出したのかは覚えていない。他に何の娯楽設備もなかった。(但し、将棋盤とか碁盤はあったようで、船長とか機関長とかが時折、遊んでいたのを覚えている)従って往路はする仕事もなく、暇を持て余すことが多かったように記憶している。

03第二話 冬の日本海航路のこと

冬の日本海は時化が多く、波も荒いと聞いていたが、実際に航海をして見て驚いた。敦賀―ウラジオストックの間は、片道二泊三日の航海であったが、たった二〇〇〇トン級の船で、しかも古いと来ているので、まことに良く揺れた。縦揺れと横揺れの両方であった。ひどい時化の日など、船橋に立って見ると、船首が大波を被って、ぐっくっと沈み、甲板が海水であふれて、大丈夫かなと思うほど気色が悪い。大波は次々と襲ってきて、船はそれを一つ一つこえていくのだから大変だ。そういう時は、一体本船は前進しているのかどうか、疑いたくなる状況だった。この状況が丸一日、いや丸二日も続くと、全く船から降ろしてくれと云いたくなる。そんな時はベッドに寝ているしかなく、横になっていても、横揺れはまだいいが、縦揺れになると、船がミシミシ音を立て、身体ごと、船と一緒に沈んでいく気がして、とても眠れたものではなかった。勿論そんな状況では食堂で食事は出来ない。用意した皿、調味料台などがテーブルの上を、前後左右にすっ飛び、万事休すで、船員以外の船客はほとんど船酔いで、出てこないし、我々船員には、船室に握り飯が配給になるのが通例であった。

天草丸甲板にて
天草丸甲板にて

私もご多分に漏れず、初めての第一回目の往路の航海では、船酔いの洗礼を受け、ほとんど寝たきり、食事無しの苦しい経験をせざるを得なかった。しかし不思議なもので、ひどい船酔いも、船が港に着くと、ケロッとして直ってしまうのであった。

私の場合、第一回目の復路の航海は、船客としてユダヤの難民が多数乗り込んできたこともあり、極度の緊張で船酔いばかりしていられず、幸いに帰りは余り海もしけなかったのか、何とか、寝たきりにならずに、船客相手に任務を遂行出来た様に記憶している。

その後、二十数回にわたり、私は日本海を往復することになったのだが、日本海でもよく晴れた日もあり、そんな時はデッキに出て思いきり太陽の光を浴びたり、歩き回ったりして健康維持に努めたものであった。
そんな冬の航海も回を重ねる程に慣れて来て、あんなに揺れても船は中々沈まない物だと思うようになり、経験豊富な船長を信頼して日本海の往復を続けたのであった。

船客の中には強気な人も居て、時化の日でも無理して食堂に出てきて食事を始めるのだが、大抵は途中で気持ち悪くなって席を立ち、そのまま帰ってこないようなことが多かった。船員は大方、商売柄?船には強く「多少は船が揺れないと飯がまずい」などと云う猛者もいた。新米の私は其れ程ではないにしても、航海を重ねる毎に船酔いには強くなったのだから驚きである。

私は太平洋戦争が終わって、米国の占領軍統括の時代に、漸く国際観光が許可になり、日本に米国を主体とした観光客が来日することになった頃、米国と日本を結ぶ豪華客船(その頃はそう云われた)アメリカン・プレジデント・ラインの「ウィルソン号」に日本交通公社から乗船勤務者第一号として、横浜―サンフランシスコを一月かけて往復することになったが、この客船は大型(一万八千トン)であり、天草丸とは天と地の差があったし、太平洋横断は生まれて初めてではあったが、前の日本海の経験が物を云ったのであろう、全然船酔い無しで任務を遂行出来たことはありがたかった。

04第三話 ユダヤ人のこと

昭和十四年~十五年の頃の私は、ビューローに居て、ユダヤ人とのお付き合いは恐らくなかったと思う。それが、この時のユダヤ人輸送の斡旋の仕事のおかげで一万人以上のユダヤ人とお目にかかることになったのである。

真冬のウラジオストックは凍りついて、気温は〇度以下が多く、寒さは厳しい。雪の舞う波止場に列を成してタラップに乗り込んでくることもあったが、私どもがタラップの上で待っていると、ソ連側のゲー・ペー・ウー(G・P・U)即ち警察の隊員が、一人一人の証明書のような物をチェックして乗船を許可していた。難民と云っても千差万別で、最も分かり易いのはユダヤ教の僧侶、上から下まで黒装束で、頭にお皿見たいな小さな丸い黒色の帽子?を載せていた。老若男女が入り混じって大きな荷物を重そうに持って乗船してくる姿は壮観であった。中には英語を得意として話す者もあり、彼等が私との通訳となったわけで、坊さんの数も多かったが、殆ど英語は分からなかった。

航海中に撮った写真
航海中に撮った写真

前にも述べたが、本船には数は少ないが、一等船室もあったので、どういう選択をしたか知らないが、一等の乗船券を持ったお客も毎回いた。そういうお客は、同じユダヤ人でも、これが難民かと疑われるような、ぜいたくな服装の夫婦であり家族連れであった。彼等はどういう訳か、金持ちであり、大方が尊大であった。ボーイ長にはチップの稼げる乗客であったようで、いろいろサービスに努めていたようだが、ケチなお客とはよく喧嘩していた。坊さんや一般の難民たちは大体が三等客で大部屋にゴロゴロしていた。彼等は余り金を持っておらず、敦賀に着いたときに貰う現金と引き換えるトーマス・クック社のバウチャー(引換証)をもっている筈であった。

老若男女といっても、最も数多く乗船したユダヤ人は中年の男性で、女性も中年以上が多かったように記憶している。中には珍しく目を見張るような美人がいた。概してユダヤ系の若い女性は美人型が多いとか、但し年を取るほどに殆ど例外なく肥満体となり、若いときの面影がなくなるという話であった。
何れにせよ、その当時のユダヤ人はパスポートを持たぬ無国籍人で、欧州から逃れてきた難民ということで、一般的に何となく元気なく、中にはうつろな目をした人もおり、さすらいの旅人を彷彿させる淋しさが漂っていた。無国籍人の悲哀をこれ程感じたことはなく、私はこの時くらい、日本人に生まれたことを幸せに思ったことは無い。

05第四話 ウラジオストックのこと

今でこそ、ロシアに変わったウラジオストックの町は外国人にも解放され、ビジネスマンや、ツーリストまでが自由に訪問できる時代になったが、五十年前のこの町は、私ども船員は原則として上陸は認められなかったのである。もっとも厳寒のこの港は、粉雪が舞い、凍りついていて、出る気もしなかったのが実情であった。

私どもは本船が入港後はのんびりと、揺れない船室で一時を過ごすことが多かったが、ソ連側のG・P・Uは四六時中、本船を警備していた。若い隊員はヅカヅカと船室に入ってきて、日本語を流暢にしゃべり、私どもの持ってきた日本の新聞を漢字まで読んだのには、本当に驚いたものである。そんなにまで日本に対して研究というか、将来の何かに備えていたのかと、恐ろしくなったものである。大体、若い隊員が多く、彼等の態度は一応優しく、にこやかであったように記憶している。

一度だけ、船長に誘われて、お供し、上陸して現地の日本領事館を訪問したことがあった。船長だけは、しばしば領事館を訪問しており、この往復だけ(勿論徒歩で)がゆるされていたようで、余り気分の良いものではなかった。領事館で何をしたか覚えていないがとにかく一度だけ、ソ連の土を踏んだという思い出だけが残っている。

06第五話 ビューローの斡旋業務のこと

前にも述べたように、ビューローは米国の当時有名だったトーマス・クック旅行社との契約により、日本経由で、米国やその他の国に逃げてくるユダヤ人宛に、米国在住の親戚、友人から預けられた難民個人に対する保証金を、当時のビューローのニューヨーク事務所を通して、東京本社に送金するという仕組みになっていた。

ニューヨーク事務所では、つぎつぎと受取った保証金を本社に送金すると同時に、渡すべき難民本人の氏名を本社に打電した。それにより本社外人旅行部では、難民の氏名と送金額のリストを作り、乗船勤務者と敦賀駐在員に送った訳である。
敦賀駐在員は何ヶ月毎かに交代したが、寒い冬の敦賀での業務は決して楽ではなかった筈である。私と最も長く冬場の駐在員として付き合ったのは鈴木君という当時のハリキリボーイであった。本船が帰ってくると私は、業務を終えた後、本船のスケジュール、又は天候、船の遅れによる変更等で、一泊から二泊を駐在員と同じ旅館で過ごすのが常であった。上陸後に、揺れない旅館で、ゆっくり駐在員と歓談できたことは喜びであった。

乗船勤務の私は、毎回出航前に受取った本社からのリストにより、復航に乗ってきた難民を相手に、当時「イエローペイパー」と呼ばれていた送金通知書の所持を確認し、リストによって、ビューローから送金が来ているかどうかを、チェックする業務に当ったのだが、多くの航海は時化で船酔いの難民が殆どで、悪臭ただよう三等船室で、一人一人をチェックすることは大変な仕事だったし、全員をチェックすることなど、到底無理であった。その上、さらにチェック業務を難しくしたのは、ユダヤ民族の名前であった。モスコヴィッチとか、ゴールドベルクだとかいう同じ苗字の人が多く、所謂ファーストネームで本人を確認しなくてはならなかった。従って敦賀に入港すると、駐在員が大変苦労することになったのである。

日本の、外国人入国手続きとしては、先づ検疫、次に入国管理官による旅券と査証(ビザ)の検査、其れから税関による荷物検査と云う順序は昔も今も変わらない。

この時代の敦賀港では、難民は無国籍で旅券を所持しないので、所謂身分証明書と、其れにある査証がチェックされたのであるが、難民の場合は、「見せ金」というか、トーマス・クック社からの送金が着いているかどうかが、今一つの条件だったので、まづビューローで送金の有無がチェックされなくてはならなかった。この送金が確認されれば、晴れて上陸が認められることになったのである。処が、数百人の中には、送金が着いていないものも多数いた。そういう時には、神戸から来ていた米国ユダヤ人協会の日本支部の責任者が呼ばれて「ギャランティ(保証)」し、滞在費を支払うことになったが、ここに私はユダヤ民族の強力な団結力の現れを見た気がした。

私と駐在員は、何とか本人をリストから捜しだそうと、数百名の膨大なリストを夢中になってチェックしたことを今でも覚えている。其れは確かにシンドイ仕事であった。

しかも、ビューローの斡旋業務はそれだけではなかった。本人を確認した送金引換証に対して、事前に用意した円貨を、駐在員が手渡すことであった。滞在費を含め、当時の金で(当時は米貨一ドルが約二円四十銭前後)二百数十円を何百名かに渡す業務も大変だったと思う。こうして現金を受取り、上陸を許された難民たちは税関検査を終えて、横浜か神戸へと移動したのだったが、大方の人数が分ると、ビューローの駐在員は、要領よく敦賀駅までのバス輸送を準備したり、時には団体の大きさにより、臨時列車の手配をした。

私達ビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族、数千の難民に通じたかどうかは分らないが、私達は民間外交の担い手として、誇りを持って、一生懸命に任務を全うしたことは確かである。
これらの難民の中から、米国に行って成功し、出世した人、金持ちになった人もいたことであろう。彼等が中心になり、嘗て世話になり、命を助けられた杉原元副領事を称える運動が、この数年の間に広がってきたことを聞き、ユダヤ人たちも中々良いことをしてくれるものだと感じている今日の私である。
(平成七年一月二十五日記)

写真提供:國本美恵様

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