素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割~

ユダヤ人の足取り

ユダヤ人の足取り

  • ①外交官:杉原千畝①外交官:杉原千畝
  • ②ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現JTB)東京本社②ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現JTB)東京本社
  • ③外交官:根井三郎③外交官:根井三郎
  • ④ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現JTB)ウラジオストク~敦賀④ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現JTB)ウラジオストク~敦賀

ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、迫害から逃れてきたユダヤ人たちは、リトアニアに辿り着きます。当初ビザは、日本領事館だけでなく、オランダなど他の領事館でも発給されていました。
しかし、1940年6月、ソ連はラトビア、エストニアに続き、リトアニアを占領。7月には併合が決まり、各国の大使館や領事館は次々に閉鎖され、唯一残された日本領事館の閉鎖も8月末と通告されます。
追い詰められたユダヤ人が生き延びるには、日本の通過ビザを手に入れ、シベリア鉄道で極東まで進み、日本へ渡って第三国へ脱出するしか道は残されていなかったのでした。

リトアニアの首都カウナスで、杉原千畝が発行したビザを持ったユダヤ人は、シベリア鉄道でロシアを横断して、ウラジオストクへ。ここから船で敦賀に上陸し、その後横浜や神戸へ移動、最終的にはアメリカなど他国へと渡って行ったのです。

この長く厳しい避難の旅の一部を、アメリカのユダヤ人協会から依頼されたのがジャパン・ツーリスト・ビューローでした。

当時、日本はドイツと友好関係にあったことから、この依頼を受けるべきか、ジャパン・ツーリスト・ビューロー本社内で議論の末に、人道的見地から引き受けるべきと決断。敦賀に臨時の事務所を開設して駐在員を置き、「天草丸」に添乗員を配置。受け入れ体制を整えました。

敦賀の人々は到着したユダヤ人たちを、花を手に笑顔で出迎え、銭湯を無料で開放したり、リンゴを無償で配布するなど、言葉も文化も違う異国での暮らしを心身ともに支えました。

当時のJTB

JTBの前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローは、1912(明治45)年に外客誘致を目的に創立されました。国内外に案内所を開設したほか、大連、旅順、長春など旧満州にも委託案内所を設け、社の刊行物や各種観光案内などの印刷物を配布して、日本への誘客をスタートしました。
1915(大正4)年には乗車券の委託販売を開始。1925(大正14)年には邦人客向けに鉄道省、運輸省が管轄する鉄道線の一般乗車券とクーポン式遊覧券の販売を開始し、現在の旅行業への業態変換を意味する大きな転換期となりました。
1927(昭和2)年には社団法人となり、規模を拡大していきました。第二次世界大戦の終戦時には、職員総数は4900人を数えました。

交流文化クロニクル「第四回 素敵な日本人へ ユダヤ人避難における役割」

※社名・肩書きは取材当時のものです。

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