素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割~

インタビュー 「命のビザ、遥かなる旅路―杉原千畝を陰で支えた日本人たち」著者 北出明氏

『大迫辰雄さんについて』

─ 大迫さんとの出会いについて教えてください。

北出明氏
北出明氏

北出明氏:私は大学を卒業した1966年、外国人旅行者の誘致活動を行う政府機関、国際観光振興会(現日本政府観光局=JNTO)に就職しました。そこで初めて、当時JTBからJNTOに出向してこられたばかりの大迫さんと出会いました。その年、JNTOでは国際会議の誘致業務も開始するため、専門部署のコンベンション・ビューローを新たに設置したのですが、その責任者として大迫さんが迎えられ、そこに、新入職員の私が配属されたのです。

─ 大迫さんはどんな方でしたか?

北出明氏:とにかく英語が堪能で、上司でしたが決して偉ぶることなく、とても謙虚でシャイな一面もある、日本人的な人でした。

─ ユダヤ人輸送の任務を知ったのは?

大迫さんとユダヤ人女性(写真左が大迫さん)
大迫さんとユダヤ人女性(写真左が大迫さん)

北出明氏:私は大迫さんの下で3年間お仕えしたのですが、その間、大迫さんが1940年~41年当時、ユダヤ人の輸送の任務に携わっておられたことはまったく知りませんでした。大迫さん自ら口にすることはなかったのです。

私がそれを初めて知ったのは、それから約20年後のこと、大迫さんも既に現役を退いておられた頃だったと記憶しています。ある日、たまたま「日本交通公社70年史」を手にする機会があり、読み進んでいくうちに、かつてJTBはユダヤ人輸送の業務を請け負ったとの記述が目に入りました。そして、驚いたことに大迫さんがこの任務に携わっておられたことを知り、深い感動を覚えました。それ以来、いつか大迫さんにお会いし、直接お話をお聞きしたいと思うようになりました。

─ その後、お会いできましたか?

大迫辰雄さんのアルバム
大迫辰雄さんのアルバム

北出明氏:私が海外勤務を終え帰国した1998年にようやくお会いできました。
でも、「自分は任務を全うしただけ」という姿勢を崩さず、決して多くを語ることはありませんでした。
その謙虚な姿に、ますます敬慕の念が深まりましたね。

ただ、そのとき、大迫さんが大事にされていた当時のアルバムを見せられたのです。
そのアルバムには、当時のユダヤ人乗客から贈られた写真がきれいに保存されていて、写真の裏には大迫さんへのメッセージが書かれていました。
中でも印象に残っているのが、「私を思い出してください。素敵な日本人へ。」
というメッセージ。

このとき、残された写真やメッセージを目にして、「外交官 杉原千畝の命のビザについては広く知られているけれど、当時のJTBの取り組みや、日本へ逃れて来たユダヤ人たちの思いについては、知る人は少ない。これらをきちんと後世に伝えるべきだ」と感じ、取材活動を始めたのです。

『取材活動でわかったこと』

─ 当時のJTBは、なぜこの任務を受け入れたのでしょうか?

北出明氏
北出明氏

北出明氏:戦中・戦後の混乱により、この当時のJTBの記録はあまり多くは残されていないようですが、JTBに、ユダヤ人輸送業務の要請が来たのは、1940年春頃だとわかりました。
シベリア大陸を横断し、ロシア・シベリアを経てウラジオストクへ。そこから日本海を渡り、福井県の敦賀へ。
そして、日本から受入れ先となる第三国へ向かうというルート。
その頃、ユダヤ人たちがナチス・ドイツによる迫害から逃れるルートは、もうこれしか残されていなかったのです。

当時の世界情勢から考えると、この任務を請負うことは、日本と同盟を結ぶナチス・ドイツに逆らうことにもなるため、JTBにとって非常に難しい決断を迫られたことでしょう。
どのような議論が交わされ、この要請を受け入れたのか?最もそれが知りたいところですが、記録が残っていないため確かめることができません。
しかし最終的にJTBは、「人道的見地からこの任務遂行を決断した」との記録が残っています。

─ 大迫さんをはじめとした当時のJTB職員は、この任務にどのように携わったのでしょうか?

北出明氏:1941年のドイツ軍によるソ連侵攻を機に、シベリアルートが断絶するまで、10数回に渡るユダヤ人輸送が行われました。最も多く輸送任務に関わったのは大迫さんですが、海上輸送に関わった職員は4名ほどいたようです。
ユダヤ協会から渡された名簿をもとに、乗客ひとりひとりの顔と名前の照合や、ユダヤ協会からの支給金の給付、第3国への出国をスムーズに行うための仕事などに携わりました。
敦賀に開かれたJTBの臨時の駐在所では、海上輸送で到着したユダヤ人乗客を、神戸や横浜などの国際港へ送客する業務にも従事しました。

中でも海上輸送は、特に大変な業務だったようです。
第1回目のユダヤ人輸送は、約5000トンの大型船「ハルピン丸」で行われました。しかし大きすぎてウラジオストクの港に着岸できなかったため、第2回目以降は2300トン程度の中型船「天草丸」に変更。冬の日本海は時化が多く、波が荒れるため、大迫さんが「天草丸」で初めてウラジオストクへ向かう往路は、激しい船酔いの洗礼を受け、眠れない、食べられない、の苦しい航海となったようです。しかし、港に着き、たくさんのユダヤ人たちを目の前にすると、船酔いのことなど忘れてしまい、無事任務を遂行することができた、と大迫さんは回想録の中で語っています。

天草丸の写真
天草丸の写真

─ 当時船に乗ったユダヤ人の方たちにも取材されたそうですね?

北出明氏:ユダヤ人たちは、追われるようにヨーロッパを脱出し、シベリア大陸を横断するためにシベリア鉄道に乗っている間も、「いつソ連の官憲に連行されるか分からない」という不安に怯えていました。
やっとの思いで輸送船に乗り込み、ウラジオストクを出港した瞬間、どこからともなく、ユダヤ人たちの心の拠りどころとも言うべき歌「ハティクヴァ(希望)」(現:イスラエル国歌)が船内に溢れたそうです。日本行きの船に乗れたということが、ユダヤ人たちにこの上ない安堵感や安心感を与えたのでしょうね。
しかし船に乗ってしまえば安全というわけではなく、第二次世界大戦下の海を10数回往復するという大迫さんの業務は、文字通り命をかけた危険な仕事だったと言えるでしょう。
当時避難民だった方たちに取材した際、敦賀に到着したユダヤ人たちは、「敦賀を天国だと思った」と言っていました。迫害を受ける宿命を背負って生きて来たユダヤ人たちにとって、敦賀の人たちの温かい歓待は、幸せな記憶として鮮明に残っているのでしょう。

昨年2014年の春に、大変嬉しいことがありました。大迫さんの娘さんから例のアルバムを託され、7枚の写真の持ち主を探していたのですが、ついに、73年の時空を超え、そのうちの一人の身元が判明したのです。
それが、「素敵な日本人へ」の女性(ソニア・リードさん)でした。残念ながら、ご本人はすでに他界されていましたが、幸い、3人のお子さんたちと連絡が取れ、大迫さんの娘さんのご了解を得、長女の方(デボラ・リードさん)に「お母さんの写真をお返ししたい」と申し出ました。

デボラさんからは「両親と姉二人の命を奪われたという母は、私たちに当時のことは殆ど語りませんでした。よほど辛い時代を送ったのでしょう。この写真を見て、その頃の母の様子が偲ばれ、感無量です。
70年以上も前に母が大迫さんに残した言葉は<私を思い出してください。素敵な日本人へ>でした。
そして、母の願いは叶えられました。彼女は生き延びて幸せな人生を送ることが出来ただけでなく、しっかりと記憶されていたのです。そして、助けを必要としていた人々に示された日本人の親切もまた間違いなく記憶されていたのです。」とコメントをいただき、私も大変感激しました。

ソニア・リードさんの写真(左)
ソニア・リードさんの写真(左)

─ 最後に、北出さんを取材活動へと突き動かした原動力は何だったのでしょうか?

北出明氏:現在、親日民族として世界的にも知られるユダヤ人ですが、2011年の東日本大震災や1995年の阪神・淡路大震災のときなど、海外のユダヤ人コミュニティからたくさんの支援の手が上がりました。
約6000人の命を救った外交官・杉原千畝の“命のビザ”が、今にも続くユダヤ人の日本人に対する親愛の念を生み出したのは確かだと思います。
でも、大迫さんをはじめとした当時のJTBの職員たちが、“民間外交官”として懸命に働き、ユダヤ人たちを気遣い、労ったことも、現在までに続く親愛の念や交流を生み出した理由のひとつになっているのではないかと思います。
第二次世界大戦の混乱の中、こんな日本人がいたことを、現在の多くの人たちに知って貰いたい。
その一念です。

北出明 氏

北出明 氏

1944年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。
1966年慶應義塾大学文学部仏文科卒、国際観光振興会(現・日本政府観光局=JNTO)に就職。ジュネーブ、ダラス、ソウルの各在外事務所に勤務。
1998年国際観光振興機構コンベンション誘致部長。
2004年JNTO退職。
知られざるJTBの貢献として、1940年~1941年までのユダヤ人輸送任務を紹介した「命のビザ、遥かなる旅路―杉原千畝を陰で支えた日本人たち」(交通新聞社新書)を執筆。

写真提供:國本美恵様

交流文化クロニクル「第四回 素敵な日本人へ ユダヤ人避難における役割」

※社名・肩書きは取材当時のものです。

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