交流文化クロニクル
「第六回 いつもスポーツのそばに~JTBのスポーツツーリズム~」

JTBグループが取り組む「交流文化事業」。
その原点は、これまでの100年の歩みの中にあります。
めまぐるしく移り変わる時代の中
人と寄り添い、考え、行動し、新たな価値を提供してきた人たち。
そこにどんな物語があり、思いがあったのか。
それは今も、受け継がれています。
故きを温ね、新しきを知る
交流文化クロニクル。
私たちのこれまでと、これからの姿をお伝えします。

01日本のスポーツのそばに

日本のスポーツのそばに
日本のスポーツのそばに

いよいよ4年後に迫った東京2020オリンピック・パラリンピック。大会を目前に控えた今、スポーツ観戦を目的にした旅行や、それに伴う周辺観光、スポーツを支える人々との交流など、スポーツに関わる様々な「スポーツツーリズム」の可能性から、新たに官民を挙げての取組みが始まっています。

日本が初めてオリンピックに参加したのは、明治45(1912)年、ストックホルム1912オリンピックでした。
奇しくもこの年は、現在のJTBグループの前身となる「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が誕生した年でもあります。
ビューローでは、当初からスポーツを通じたツーリズム(観光)に着目し、スポーツの振興により地域活性化や観光客拡大を目指す「スポーツツーリズム」の歩みを進めてきました。

東京2020オリンピック・パラリンピックの「東京2020大会オフィシャル旅行サービスパートナー」となったJTB。全社のスポーツ事業を統一して、新ブランド「JTBスポーツ」を設立し、全社一体となって、より一層のスポーツ事業の取組み強化を進めてまいります。
今回の文化交流クロニクルでは、日本のスポーツと歩みをともにしてきた私たちの、これまでの取組みをご紹介します。

02オリンピックとともに

オリンピックとともに
オリンピックとともに

はじめてのオリンピック

アジア有数のスポーツ先進国といわれる日本ですが、現在のように様々なスポーツが盛んに行われるようになったのは、昭和39(1964)年に東京で開催された東京1964オリンピックからという説があります。これをきっかけに、子どもから大人まで広くスポーツが浸透していったとされます。

そこに至るまでの道のりは長いものでした。
日本が初めてオリンピックに参加したのは、明治45(1912)年のストックホルム1912オリンピック。同じ年に設立されたJTBグループの前身「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」は、そのストックホルムを視察しています。

翌年に創刊した機関誌『ツーリスト』第1号では、海外の最新のツーリズムの動向を伝える中で、真っ先に外国人観光客を迎えるストックホルムの街の様子を伝えています。

「とにかく、数万人の外国人が入り込んで居るにかかわらず、市内秩序整然として居るのには感心しました。特に「ホテル」、商店、その他外人に接するのは、待遇上大に注意をはらって居りました。日本などではかかる場合、ともすれば目前の利益のみを事として、永遠の利害を打算せず、暴利を貪るというようなことがあるようでありますが、之は大に注意しなければならぬことと思います。」(『ツーリスト』第1号「欧州各国における外客誘致に関する施設」より)

外国人観光客を迎える姿勢や日本がこれから目指すべき観光の在り方が考察され、ここからビューローの具体的な取組みが始まってゆくのです。

時代は下って戦後。
スポーツは復興と国際交流の大きな力になりました。

団体での海外渡航も、スポーツの分野から始まります。昭和26(1951)年、インドのニューデリーで行われた第1回アジア競技大会(1951/ニューデリー)には、多数の日本選手団が参加しました。終戦後まもなく「日本交通公社」と名前を変え再出発したJTBグループは、戦後初の海外添乗という重要な任務を担い、社員2名が選手団本部と寝食をともにしました。

翌年2月、ノルウェーのオスロで開催された、日本が戦後初めて参加を認められたオスロ1952冬季オリンピックでは、スケートとスキーチームに同行。以来、JTBグループは、数多くのスポーツ団体の斡旋に力を注いでいきます。
敗戦に打ちひしがれた日本人にとって、スポーツ選手の活躍は一つの明るい希望でした。海外の国々に対しても、スポーツでの交流は、日本人の真の姿を知ってもらう大きな意味があったといえます。JTBグループのスポーツツーリズムへの歩みは、こうして始まっていきました。

東京1964オリンピックで「善意通訳」に参加

やがて、悲願だったオリンピックの東京開催が決定します。アジア初となる開催に向け、ただちに官民を挙げた準備が始まりました。

日本交通公社は、国内における入場券の一般販売総代理店を務めました。混乱を避けるため、チケットは分割して販売し、約一年間にわたり動員された社員は、延べ2万人を超えました。同時に、諸団体に委員・役員を派遣するなど、全面的な協力体制が敷かれました。またこの間、ローマ1960オリンピックの視察調査団に社員を参加させるなど、事前の対策研究にも万全を期しました。

さらに日本交通公社は、「グッドウィルガイド」(善意通訳)にも参加します。
これは、外国人旅行者が国内各地を安心して旅行できるよう、JNTO(日本政府観光局)が提唱した、善意通訳普及運動でした。日本語が分からず困っている外国人に、自発的に通訳をかってでる個人のボランティア活動です。外国語で簡単な道案内ができる程度の語学力が必要とされ、登録されると、認証バッジが付与されます。
日本交通公社は、企業の中ではもっとも多い812名が参加。バッジを胸に、街中で活動しました。

こうして、たくさんの人の力が結集して、成功を収めた記念すべき東京1964オリンピック。その後さまざまなスポーツのクラブや教室が全国に広がり、老若男女、幅広い人々がスポーツに参加するようになったといいます。

東京1964オリンピックをきっかけに、1970年代初め世界的になった「Sports for all(国民皆スポーツ参加)運動」(=スポーツが一部の才能や機会に恵まれた者だけのためのものではなく、すべての人々が享受すべき権利)が、日本に生まれたといわれています。
JTBグループがその後もさまざまなスポーツに関わり続けてきた背景には、こうしたムーブメントがありました。

03ウィンタースポーツへの挑戦

ウィンタースポーツへの挑戦
ウィンタースポーツへの挑戦

ビューローマン、スキーを習う

現在、スキーはウィンタースポーツとして広く浸透しています。が、スポーツとして一般の人に広がり、雪山がにぎわいを見せるようになるのは、戦後になってからのことといわれています。

日本にスキーが定着したのは、明治44(1911)年、オーストリアのレルヒ少佐が、新潟県高田(現上越市)の歩兵58連隊に、本格的にスキー技術を指導したことに始まるとされています。当時スポーツとしては、ごく一部の人々の間で行われていただけでした。

そんな中、設立されたばかりのジャパン・ツーリスト・ビューローは、ウィンタースポーツに着目します。

「瑞西(スイス)と云えば、三才の童子といえどもよく知って居る通り、景色が佳く、~(中略)~冬期は寒冷ではありますが、近年「ウィンター・スポート」の設備をなして、客を呼んで居る。かく総ての方面より視て、この国は遊覧地たるに適して居る。」(『ツーリスト』第2号「欧州各国における外客誘致に関する施設」より)。

スイスのような寒冷地でも観光需要を生み出せる、ウィンタースポーツの可能性に注目したのです。

さらに大正7(1918)年頃、ビューローは日本にも冬季の旅行者を生み出そうと、スキーの普及を思い立ちます。
ビューローマンの一人、『ツーリスト』の編集も手がけていた山中忠雄は、高田連隊の高橋大尉を訪ね、スキーの教えを請いました。

午前中はまずスキー理論について教わり、午後はスキーをはいて実習。「スキーは転ぶほど上達が早い」と励まされ、翌日はさっそく赤倉温泉まで遠出にチャレンジします。
まだリュックサックもない時代なので、荷物を詰めたバスケットを背中に紐で結び付け滑り出してはみたものの、転倒につぐ転倒。命からがらやっとのことで赤倉温泉に着いたときには、バスケットの中身はすっかり空になっていたといいます。

それでも山中は意気揚々と帰京すると、ビューロー内にさっそく「東京スキークラブ」を設立します。クラブには、在留外国人スキーヤーや各界の名士なども参加したと伝えられます。さらにビューローでは、スキー普及と技術の進歩を目指し、講習会や展覧会を主催。時には、スウェーデン大使館からスキーの映画を借りて、映写会も行いました。

早く楽に上手になれる「JTBスキー学校」

戦後いち早く体制を整え、「日本交通公社」となったJTBグループは、サイクリングツアーやキャンプ講習会の開催などを企画、「健康旅行」の普及を図ります。
まだ終戦後の混乱期ではありましたが、むしろそのような状況下だからこそ、率先して本来の姿を取り戻そうと復興に努めたのでした。それは当時の日本交通公社が、「旅行を通じて国民の生活向上に寄与する」使命を持った、公共的機関であったためでした。

なかでも、終戦からわずか半年の昭和21(1946)年2月には、越後湯沢で「JTBスキー学校」を開設します(日本交通公社、毎日新聞、国鉄東京鉄道管理局のタイアップ)。

これは当時、文化事業部にいた鈴木正彦の「戦後の混乱の世相に、健全旅行を」という提唱が実現したものでした。

戦前創設された「全日本スキー連盟」のスキー指導員第一期生だった鈴木は、その経験を活かして計画を進めました。
専用列車を仕立て、宿を手配し、スキー術を学んだ講師による実技指導をセットに。駅に着けば、バスが待っていて参加者をスキー場へと運びます。3泊4日程度で、実技指導を中心に、夜は車座になって生徒の質問に講師が答える座談会、といった内容だったといいます。そこには、「スキーの好きな人を育てたい」という鈴木の強い思いが込められていたようです。
鈴木は、80人からの参加者の添乗員を務めるとともに、自らスキーの指導と検定にあたりました。上野駅に集まれば、スキー場へ連れていってくれる。楽で便利だと、スキー学校は人気を集めたようです。

こうして、この年開設されたスキー学校は5回。その後、毎年30カ所以上のスキー場で開設されるようになったといいます。

この間、社内におけるスキー技術者の養成には、指導員養成講座の開催、連盟検定試験への派遣など、社員教育の一環として特別に力が注がれました。そして、国民的スポーツとしてのスキー普及に力を注ぐ、多くの人材が輩出することになるのでした。

以来、スキー人口の増加とともに、JTBスキー学校も年を追って盛大となり、「早く、楽に、上手になれるJTBスキー学校」のキャッチフレーズとともに、広く知られるようになったという記録が残されています。

広がるスキーファンの輪

「JTBスキー学校」は、スキーの魅力をたくさんの人に知ってもらうきっかけとなっただけでなく、スキーを愛する人々の輪を広げていくことになります。

昭和23(1948)年、この「学校」に参加した講師と生徒が集まり、新たにスキークラブ「東京スポーツマンクラブ」が生まれるのです。もちろん、鈴木もその一員でした。
鈴木とクラブメンバーのスキーにかける情熱は大きく、その後地元の人に働きかけて、越後湯沢の先に新たに「石打丸山スキー場」を開設。クラブのヒュッテも建設します。クラブはここをホームゲレンデとして数々の競技会を開催、多くの競技選手がここから育っていきます。後年、この石打丸山スキー場は国体のアルペン会場ともなり、100万人のスキーヤーが集うスキーリゾートになるのです。

ここで昭和39(1964)年からは、東京スポーツマンクラブが日本交通公社とタイアップして「子供スキースクール」をスタート。当時としては画期的なもので、毎年50名以上のクラブメンバーがコーチとして活躍、たくさんのスキー愛好家を育てたそうです。
以来、およそ70年。「JTBスキー学校」の出会いから生まれたスキークラブ「東京スポーツマンクラブ」は、今も健在。結成時より、スキー技術の優劣、年齢、性別、国籍を問わずたくさんの愛好家が集い、スキーを心ゆくまで楽しんでいるそうです。

スポーツを通じて人と人との豊かな交流が生まれ、広がっていく。それはまさに、JTBグループが目指すスポーツツーリズムの姿でもありました。

04さらなるスポーツツーリズムへ

さらなるスポーツツーリズムへ
さらなるスポーツツーリズムへ

日本のスポーツの黎明期から、スポーツツーリズムの可能性を探り、その拡大・発展を目指して挑戦を続けてきたJTBグループ。現在もさまざまな取組みを続けています。

メガスポーツイベントへの観戦ツアーでは、地域の交流人口の拡大と地域活性化を目的とした市民参加型スポーツイベントの企画・実施をしています。また、現役アスリートへの支援や競技団体への協賛など。これからも、日本のスポーツの良きパートナーであり続けたいと考えています。

2019年のラグビーワールドカップ。そして、東京2020オリンピック・パラリンピック。
JTBは、これらを成功に導くため全力で取組むのはもちろん、さらなるスポーツツーリズムによって、多くの方に感動をお届けしたいと考えています。さらに、2020年のその先も見据えて、東京や首都圏のみならず全国に広げていく使命があると考えています。

スポーツが与えてくれる感動、その力は計り知れません。これからもスポーツを通じて、新しい交流をつくり出し、社会の課題解決に務めてまいります。

参考文献/春原利久著『石打丸山スキー場 その昔』(東京スポーツマンクラブ)、日本交通公社『この人々』(日本交通公社)

JTBは、東京2020オリンピック・パラリンピックのオフィシャル旅行サービスパートナーです。

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