交流文化クロニクル
「第一回 すべては、外客誘致から始まった」

JTBグループが取り組む「交流文化事業」。
その原点は、これまでの100年の歩みの中にあります。
めまぐるしく移り変わる時代の中
人と寄り添い、考え、行動し、新たな価値を提供してきた人たち。
そこにどんな物語があり、思いがあったのか。
それは今も、受け継がれています。
故きを温ね、新しきを知る
交流文化クロニクル。
私たちのこれまでと、これからの姿をお伝えします。

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01外客誘致~100年前の訪日観光~

約100年前、ひとりの鉄道官僚が唱えた「外客誘致論」がきっかけに
約100年前、ひとりの鉄道官僚が唱えた「外客誘致論」がきっかけに

日本を訪れる外国人観光客の数は、ここ数年、過去最高を更新しています。
観光により、外国人を日本に呼び込む、いわゆる「訪日観光」です。

この訪日観光は経済、特に地域経済の活性化、さらに文化面での交流の拡大が期待され、転換期を迎えた現代日本の、成長戦略の一つに位置づけられています。

しかし、同じ状況が、実は近代日本にも存在したのをご存知でしょうか。

今から、100年以上前。
明治が終わり、大正という新たな幕が開けた、まさに時代の転換期です。
その時代に産声を上げたのが、「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」。
のちのJTBグループです。

その誕生は、当時ひとりの鉄道官僚が唱えた「外客誘致論」がきっかけとなっています。

外国人をツーリスト(観光客)として日本に誘致。観光で、日本文化への理解を深めてもらい、外貨を獲得し、国家の繁栄を実現する。現代の訪日観光にも通じる、当時としては非常に先進的な考え方だったといわれています。

明治維新から約50年が経過した当時の日本。経済発展や近代化に努めていましたが、欧米と肩を並べるにはほど遠い状況。観光により国を豊かにし、一等国を目指す国家的な戦略の中、今のJTBグループは誕生したのです。

100年前の訪日観光、観光立国とも言える外客誘致論。
そこにはどんな思いが込められていたのか、そして今も受け継がれるものとは。JTBグループの前身、ジャパン・ツーリスト・ビューロー誕生秘話をご紹介しましょう。

02のちの総理大臣、原敬を説得

外客誘致機関設立のため、後のJTB創始者である木下淑夫は原敬を説得
外客誘致機関設立のため、後のJTB創始者である木下淑夫は原敬を説得

ある官僚の思い

時は明治。欧米に追いつけ追い越せと、日本は西洋各国に学び社会制度を整え、鉄道を建設し、レンガづくりの西洋館を次々に建築していました。日本が近代化に向け、様々な外国文化を次々に取り入れていた時代でした。

また、技術や制度を実際に吸収しようと、海外に渡る人も少なくありませんでした。しかし当時は船だけが頼り。太平洋を横断しアメリカに着くまでに10日ほどもかかりました。今よりも外国は、遥か遠い時代でした。

その頃、アメリカから帰国した一人の若き官僚がいました。当時、鉄道を管轄していた鉄道院の木下淑夫(きのしたとしお)です。

鉄道は当時、交通の花形。明治5(1872)年、新橋―横浜間に鉄道が開通。鉄道網は全国に広がり、明治後半には各地の民間の鉄道会社が政府によって買い上げられ、国有化されていきました。日本で人やモノの交流を拡大させる、交通事業が目覚しく発展していった時代です。

国内の交流拡大、交通の発展に力を注ぐ木下が、観光による外国人誘致、そして外貨獲得を目指す日本の成長戦略「外客誘致論」を掲げた官僚です。

木下のこの考えは、欧米留学中の苦い経験から生まれたといいます。

留学先で日本への無知・無理解に当り前のように遭遇し、近代化が遅れているアジアの小国としか認識されていない事実をいやというほど突きつけられました。

日本人として、また国家を担う官僚として、日本のこの状況をどうにかしなければ。

そのような思い、使命感から木下は、当時日本が直面していた課題に取組み、外客誘致論という国家の進むべき方向性を自ら掲げたのです。

文化理解と経済発展を観光で

交通の発展に尽くしてきた木下は、人や文化の交流を生むツーリズム(観光)に着目しました。日本でも、当時まだ珍しかった観光を活用することで、外国人を呼び込み、文化促進、経済発展を目指そうと考えたのです。

百聞は一見にしかず。
日本のことを理解してもらうには、実際に訪問して、見てもらう。

互いの国を行き来し、人と人とが触れ合えば、たとえ歴史や文化は違っても、同じ人間同士きっと心を通わすことができるはず。自らの留学体験で、木下にはそんな実感があったのかもしれません。

また、外国人観光客が増えれば、鉄道など交通、宿泊や観光地での遊興費など、国内の事業で外貨が獲得できます。

外国からの借金により近代化、国家経営を賄っていた当時の日本にとって、外貨獲得は重要な国家の課題でした。観光による外国人誘致は、輸出によらず、国内事業で外貨を獲得できる、新たな日本の方向性を示すものでもあったのです。

外客誘致により、国の財政を立て直せるかもしれない。また日本で製造される様々な産物が彼らを通じ、世界に紹介されることで、輸出拡大にもつながるかもしれない。日本を豊かに……。

木下の考えは、観光立国を目指す現代日本の国家戦略にも通じるものであったのかもしれません。

大物を動かす

木下は、この外国人観光客を日本に誘致するべきという考えをさまざまな人たちに伝えていきます。やがてそれは身近な人たちを動かし、そして政財界の大物たちをも動かします。

のちに総理大臣となる、政治家、原敬もそのひとりです。

外国人に日本を訪問してもらうためには、日本の情報を提供し、スムーズに旅行ができるよう交通、ホテルなど、外国人と日本人との間をとりもつ機関が必要。

木下は、原を前に一時間にわたり力説します。

説明が終わると、原敬はこう伝えました。

「実にいい考えだ。資金の半分を鉄道院が出してやろう。
不足があるようであれば、また相談にものろう、大いにやりなさい。」

さらに、この木下の外国人観光客誘致の機関創設の必要性は、経済界からも賛同、協力を得ます。観光の必要性に着目し、日本初の外国人観光客の斡旋機関「喜賓会」の設立にも関わった、実業界の大物、渋澤栄一もその一人です。
国家方針としての機関創設は、観光による経済発展を望む実業界の有力者たちの賛同・援助を獲得していきました。

長い鎖国を解かれ、急速に近代化へ向かった日本。異なる文化を持った人々と出会い交流することが、社会を豊かに変えていく……。それは、日本の未来を担う当時の人々が共通に持っていた思いだったのかもしれません。

こうしてついに、ひとりの鉄道官僚 木下淑夫の思いが組織として結実します。

明治45(1912)年3月、「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」。
JTBグループの前身の誕生です。

それは、明治最後の年。新たな時代を控えた、まさに転換期ともいえる年でした。

03ズボンは必ず「寝押し」せよ

「ビューローマンの心得」では、服装や身だしなみが細かく記された
「ビューローマンの心得」では、服装や身だしなみが細かく記された

こうして誕生したJTBグループの前身「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」。

観光による日本の発展を目指し、外国人観光客の誘致、斡旋に取り組んだこの機関のスタート当初のエピソードや様子を、ここでご紹介したいと思います。
当時としては、先進的な取組みや、今のJTBグループに受け継がれるマインドがそこにはあります。

JAPAN TOURIST BUREAU

まずは名前について。
今でこそ、英語の企業名や組織名は当たり前ですが、実は当時としても珍しい英語表記を採用しています。設立当初から、すでに世界的な視野を持っていた機関だったのです。

とはいえこれまで存在しなかった機関だけに、その名称はなかなか決まらなかったそうです。「外客集致会」や「漫遊客奨励会」など、言葉を組み合わせて新たに作った名前を、外国人向けに英訳にしたといいます。

ですが、まだまだ英語に馴染みの薄い当時の日本人には何をする所なのかわからず、そのころ流行りのビヤホールと間違えられたり、発音がうまくできずに「ツーリスト・ビール」と呼ばれたりして、職員は困り果てたといいます。

時代を先駆けるという意味で、名前にも先進的な試みがあったのです。

ビューローマンの心得

ジャパン・ツーリスト・ビューローで、何より大切にされたのは、働く職員の質でした。そこで、まず職員に求められたことは、服装や身だしなみ。

以下は、それを記した「ビューローマンの心得」です。

●洋服には毎日必ずブラシをかけること
●カラーは真白であること
●ネクタイはきちんと結ぶこと
●ヒゲを毎日そること
●ズボンはプレスしなくてもいいから、必ず「寝押し」をせよ
●靴をよく磨け
●机の上をきれいにして退社すること

今では、言うまでもないことと思われるかもしれませんが、働く職員の第一条件は、洋服をきちんと着こなすことでした。当時の日本人にとって、洋服をきちんと着ること自体、まだ当たり前ではありませんでした。

明治後半の日本では、着物を着て帽子をかぶったり革靴をはいたり、あるいは、洋服を着てぞうりや下駄をはくことも珍しくなかったといいます。正しい洋装は一部の上流階級の人々から始まり、まず警察や官庁、学校の制服などに採用されて、日本人の中にゆっくりと広まっていきました。

当時、身だしなみに気を配ったのは、次のような考えがあったからです。

日本の水先案内人として

ビューローの職員が外国の人に恥ずかしくない姿で仕事をすることは、外国の文化や習慣を尊重すること、つまり外国の人を大切なお客様として迎える、という姿勢の表れでもありました。

ビューローの職員は、海の向こうからはるばる日本という未知の国を訪ねる外国人を、先頭に立って迎え案内する、言ってみれば水先案内人のようなもの。外国の人が親しみを持ち、信頼を寄せられるパートナーでなくてはいけません。身だしなみはその基本でした。

それは、彼らの精神文化を肌で学び、身に付けること。
そこには、日本という国の窓口となる誇りと責任感があったのかもしれません。

この「ビューローマンの心得」は、その後も職員たちの中で培われ、時代とともに形を変えて、現在のJTBグループに受け継がれています。いつでも持ち歩けるよう、小さな折りたたみ冊子にもなっている「The JTB Way」がそれです。

経営理念や行動規範などを定めたその中で、社員はつねにお客様に「近しい存在」であり続けることが、今も掲げられています。

04思いを受け継ぐJTBパーソン

当時のチャレンジは今、JTBパーソンたちに受け継がれて
当時のチャレンジは今、JTBパーソンたちに受け継がれて

「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」として、未来を思う人々の大きな志によって、世に送り出されたJTBグループ。

当時、画期的だった、外国人の観光誘致という取組みにより、日本社会の課題解決を目指し誕生しました。

そのチャレンジは、今も色褪せることなく続いています。

以来、JTBグループは言葉や文化をこえ、お客様に真摯に寄り添い、時代の歩みとともに、これまでにない仕組みやサービスをひとつひとつ生み出すため努力を積み重ねています。

その領域は、今、旅に留まらず、地域活性、教育、スポーツなど、社会のあらゆる分野に広がっています。

交流により、平和で心豊かな社会の実現に貢献する。

100年をこえて続く思いや姿勢を受け継ぎ、今、交流文化事業に取り組む、現代のJTBパーソンたち。

時代の転換期にある日本、そして世界を舞台に交流文化で新たな社会を切り開こうとしています。

※社名・肩書きは取材当時のものです。

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